江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

水沢(1)-ネット検索で出てこない画家

小沢晁洲 おざわ・ちょうしゅう
文化8年生まれ。名は泰助。祖先は小沢嘉右衛門。若い頃から谷文晁に学び、文政11年の17歳の時には、上院で「韓国遣使を脾☆する図」(☆は「月」+「皃」)の歴史人物画を描き奉納した。以後弘化・嘉永年間を経て、死去するまでの49年間、旧塩釜村に住み、山水、花鳥、人物などの絵画を描き残している。『水沢町誌』や『仙台人名大辞書』などには、「特に山水を良くし、最も富士を描くに妙を得た」と記載されている。明治10年、66歳で死去した。

砂金文洲 さがね・ぶんしゅう
文政元年生まれ。名は銕之助、別号九仙。砂金嘉門次郎の子。慶長年間に川原小路東南に住んでいた。四条派の東東洋、東莱らに学んだとされる。文洲の義孫にあたる砂金青章の文洲評によると「文洲は四条・狩野・土佐などの諸派の画法を研鑽し消化している。画法は、これら諸流派の特長を適宜組み入れ、山水・花鳥・動物・人物画とあらゆる分野で豪放と繊細を縦横に使い分けながら、真実味豊かな作品を描き、特に大和絵にはその傾向を強く表わしている画人である。同期の画友菅原竹侶や小沢晁洲の画法とは異なる独自のものがあり、その代表作は《鍾馗剣磨之図》である」とある。明治初期に近親の砂金佐太郎が北海道に渡ったので、その後を慕って渡道し、各地を遍歴中に小樽付近で明治4年、53歳で死去した。文洲亡きあと、菅原竹侶の二男竹香があとを継いで新小路に住み画業を続け、その子青章も画人となった。

小沢丹田 おざわ・たんでん
弘化2年生まれ・名は守真、別号は翆石、翆月。小沢晁洲の子。絵事を志して各地を遊歴し、東京では河鍋暁斎に学んだ。暁斎の影響か水沢地方に残っている作品は、水沢地方の諸生活を軽妙な筆さばきで描いたものが多く、近世末期から明治初期までの風俗史を知る上でも貴重な資料となっている。明治15年と17年の内国絵事共進会には《豫護図》《児島高徳図》《人物》などを出品している。明治22年の水沢町制発足時には初代議長となっており、また第五区長として町政に参与している。大正6年、青森市において72歳で死去した。

菅原嘯雲 すがわら・しょううん
嘉永6年11月2日生まれ。名は好策。菅原竹侶の長男。大畑小路に住んでいた。父を継ぎ絵事に励んだが、生涯について不明な点が多い。水沢市立図書館蔵の《村景君御上江御行列の巻》には、父竹侶が墨絵を、子嘯雲が彩色を担当したと記録がある。明治15年と17年には内国共進会に山水、花卉の絵を出品しているが、病弱だったらしく後年の作品は少ない。明治37年、51歳で死去した。

水沢(1)-ネット検索で出てこない画家

文献:水沢画人伝