江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

秋田の円山四条派・平福穂庵門の三羽ガラス

辻九皐「鷲」

秋田の円山四条派としては、長山孔寅川口月嶺柴田南谷平福穂庵を中心に、多くの画家たちが出ており、寺崎広業、平福百穂も画系からみれば、この流派に属する。

角館の呉服屋に生まれた辻九皐は、小学校を卒業すると、町内の大きな店に奉公に出されたが、病弱のためすぐに戻り、15、6歳の時に平福穂庵に師事し、幼年時代から得意だった絵に専念した。明治期の各種展覧会で入賞し、中央画壇で活躍することを目指したが、病気のため帰郷し早世した。同じ穂庵門下の竹村篁邨、三森山静とともに「穂庵門三羽ガラス」と称された。

横手の手賀菘圃は、平福穂庵を慕ったが果たせず川口月嶺の子・川口月村に師事したと伝わっている。明治・大正期に秋田県内のほか仙台、大阪、京都などでも知られ、特にウズラやアユなどを得意とした。

西宮礼和(1850-1920)にしのみや・れいわ
嘉永3年角館生まれ。幼名は善三郎。平福穂庵に師事した。45歳前後に上京して画家として生活した。ときどき帰郷して角館の荒川青亭、小野崎大凌、大館の石川秀穂を育てた。大正9年、70歳で死去した。

辻九皐(1863-1900)つじ・きゅうこう
文久3年角館生まれ。家は代々仁右衛門と号した呉服屋。平福穂庵に師事した。本名は鶴治。初号は鶴皐、のちに九皐に改めた。明治25年秋田伝神画会一等、明治30年第1回全国絵画共進会一等などを受賞、明治30年に上京していた時に病気になり手術、明治33年にも東京で手術を受けたが思わしくなく、同年、37歳で死去した。

竹村篁邨(1867-1920)たけむら・こうそん
慶応3年角館生まれ。本名は寅太郎。祖父は竹村四勿軒。平福穂庵に師事した。はじめ篁邨於菟といい、のちに耕芸、秀穂などと号した。山水を得意とし、俳句、書、彫刻も巧みで句の時はひさご庵と号した。大正9年、53歳で死去した。

三森山静(1864-1920)みつもり・さんせい
元治元年秋田生まれ。本名は清治。早くに父を亡くし、苦労の多い幼年期を過ごした。絵がうまかったので、16歳のころ単身角館におもむき、平福穂庵に師事した。穂庵について上京して修業もした。30歳のころ、秋田市土崎港清水町三区の竹屋小路に住み、絵に専念した。秋田市金足の奈良磐松家の美術相談役をつとめた。大正9年、56歳で死去した。

手賀菘圃(1862-1926)てが・しゅうほ
文久2年横手市生まれ。字は時良、本名は亀松。別号に月庵がある。11歳の時に湯口椿斎に絵の手ほどきを受け、のちに川口月村に師事した。明治15年第1回内国絵画共進会で入賞、23年東京絵画展で二等賞、33年秋田伝神画会一等賞など各種展覧会で受賞を重ねた。大正15年、64歳で死去した。

秋田(21)-画人伝・INDEX

文献:秋田県立博物館収蔵資料目録、秋田県立近代美術館所蔵作品図録 1994 、秋田書画人伝