指派とは-池永康晟氏に聞く
2006年10月、京都・石田大成社ホールで「指派-ゆびのは-」の第一回展は開催された。出品は池永康晟氏を含め、人物を描く日本画出身の三人。広い壁面を使った展示は、それぞれが己の道を探るような発表になっていて、京都でも一定の評価は得たように思えたが、その後「指派」展が続くことはなかった。 あれから4年、2010年のアートフェア東京の秋華洞ブースで「指派」が復活するという。第一回展の時とは出品者は変わり、今展は池永氏と阿部清子氏の二人。4年の歳月が流れメンバーは変わったが、「指派」の復活という印象を受けるのだが、池永氏の言葉を借りれば、これは復活でも再開でもなく偶然なのだという。 はたして「指派」とはなんなのか、今後どのようになっていくのか、そしてまた偶然は起こるのか。提唱者の池永氏に話を聞いた。 (2010年3月16日 聞き手:松原洋一)
作品は素材としてゼロの物
2010年4月号
松原:最近はアートコレクターの表紙になったりして、忙しそうじゃないですか。だけどこの表紙の絵は、本画とずいぶん雰囲気が違いますね。
池永:随分と色加工してあって春らしくなっています。
松原:作家としては複雑な気持ちなんじゃないですか。
池永:いえ、とんでもない。絵というものは、私が筆を置いた時点ではまだ完成ではないんです。素材としてゼロの物が出来ただけです。私が手放したあと、受け取った方たちに遊んで戴けたら絵は成熟すると思っています。だから、これで良いんです、私は嬉しかった。
松原:なんだか江戸の浮世絵師のような心意気ですね。
「指派」は、人間を描くという事の告白の場
松原:ところで、アートフェア東京で「指派」が復活しますね。
池永:4年ぶりに「指派」という文字を見ると懐かしいです。だけど、私の中では、これは「復活」ではありません。もともと「指派」はグループ展ではないし、会期を重ねながら互いに成長するという約束でもない。「指派」は、人間を描くという事の告白の場だと思っていますから、そんな雰囲気が熟した時にやりたいと思っていました。
松原:「指派」は人物を描く人に限定されていますね。
池永:そうです。もともと「指派」は、人物画の復興というか、もっと多くの人が人物を描けばいいのに、という思いがあって名付けました。それとよく尋ねられるのですが、指派の「指」は、「描かれた指」のことでもありますが、「描いている人の指」のことなんです。
松原:つまり、絵描きの指ということですね。
目の前の愛する人を残せるのは、私の指だけ
池永:たとえば、私の目の前に愛する人がいたとして、その人を残せるのは、私の指だけです。私の目も、耳も、鼻も、唇も、その人の記憶を自分の物にする事には役立つけれども、形にして残せるのは、私の指だけなんです。愛した人を描き残しておけば、来世でまた会えるかもしれない。「指派」とは、そういった意味なのです。
松原:僕が初めて「指派」を知ったのは、20年くらい前の銀座でのグループ展で池永さんに会った時で、当時は「指派」ではなくて「天使の指派」ということで、前に「天使」が付いていましたね。
池永:そうです。天使です。
松原:どうして天使なのでしょう。
天使が女性の身体を作っている
池永:人間の身体がどうやって作られて生まれてくるのか不思議だったんです。だって、女性の身体って、何もかも滑らかではないですか。肩の先は緩やかに尖って光沢していて、頬と顎の間の丸みは柔らかくて、爪先の節の蕾みたいな形まで愛しい。これほどに絶妙なものの作り方が、遺伝子の配列の中に書いてあるなんて信じられなかったんですよ。誰かがね、血と肉と高嶺土と染土をこねて、滑らかになるまで磨いているとしか思えませんでした。だから、人間から人間が生まれるのも嘘なのではないかと思っていました。母親は夜具からそっと抜け出して、誰かと胎児の身体を磨いているのじゃないかと疑っていたんです。女性だけが秘密を知っていて、男は何も知らないのだと。
松原:その母親といっしょに身体を磨いているのが「天使」だと?
池永:そうです。正確にはその中の誰かが「天使」です。だから、人間を描く自分にも「天使の指」があればと、そう願ったんです。
松原:今はもう「天使の指」ではなくなったのですか。
池永:女性の身体は、今ではもっと解らないものになってしまいました。あれほどに、良い匂いがして、湿りを含んでいるものが、誰かが土で作っているなんて、それも違う気がします。だから天使の指ではなく、私の指でそれを描き写すしかないのです。
天使は10年以上筆を折るきっかけにもなった
松原:当時のグループ展では「天使の絵」を出品されていましたが、あの絵にもなにか意味があったのでしょうか。
池永:「天使」は、指派のきっかけでもあり、私が10年以上筆を折るきっかけにもなりました。
松原:そういえば、あの展示の後、10年以上行方知れずになっていましたね。
池永:私は絵以外の物は何一つ残したくないと思っています。生きてゆくには物が必要だけれど、私の肉体が消える時には何もかもなくしてから逝きたいのです。下図と素描は最後まで必要なものだからそれだけは手元に置いて、でも私が死んだら燃やして貰うように人にお願いしてあります。だから一人暮らしを始めてからも、布団を持たずに新聞紙に包まって眠っていました。
「奏楽の天使」の前でずっと泣き続けた
「奏楽の天使」
池永:ある朝、いつものように新聞紙に包まって眠っていて、目を覚ましたら、枕にしていた新聞紙にメロッツォ・ダ・フォルリの白黒写真が載っていたんです。朦朧としていたんですけど夢みたいな気持ちになって、そのまま美術館に行きました。そうしたら、涙がばかみたいに出て、「奏楽の天使」の前でずっと泣き続けたんです。私も、人間を描きたいと思って。
松原:人間を描きたいと思いながら、天使を描いたんですか。
池永:そうです。でも「誰かみたいに描きたい」と思ってもどうにもならないんです。誰かの方法を知ろうとするほどに、知ったもの、手に入れたもの、自分にも出来ることを、他者に見せたいと思うだけです。これはそういった頃の絵なんです、ただの切り張りです。だから苦しくて、苦しくて、苦しくて、筆を折ったのです。
身に付けたものを捨ててしまわないといけない
肌色だけが使われている
松原:絵を描かない間はどんなことを考えていたんですか。
池永:その時は、身に付けたものを捨ててしまわないといけないと思っていました。身に付けるのは簡単なんですけど、捨てるのは難しかった。だから時間がかかったんです。
松原:具体的にはどんなことをしてたんですか。
池永:他の色はいらない、一色だけ自分だけの肌色を見つけようと思って、基底材と、下塗りと、上塗りと、養生の組み合わせと方法を、毎日試しました。色見本を作って、でもまた同じ事をしても再現できないんです。それを燃やしながら部屋で泣いて、湯屋に行って、また色見本を作るんです。それだけで10年近くかかってしまったんです。
松原:それでも10年たって、何か答えが出たわけですね。
一枚の絵で描く事は一つの事でよい
池永:三十代半ばになって、その時に一緒にいた女性に「もう描けるようにはならないのかも知れない」そう言ったんです。そうしたら「これからは自分を甘やかしてあげたらよい」と笑うんです、「何もできないみすぼらしい自分を、甘やかしてやればよい」と。
なら自分の身に付けた事をすべて他者に見せなくても良いのかと聞いたら、「そうだ」とまた笑うから、身体のこわばりが解けてしまって。
松原:こわばりが解けた?
池永:一枚の絵で描く事は一つの事でよいのかと知ったら、本当にこわばりが解けてしまったのです。
そしてようやく見付けた一色だけがあれば、もうそれで充分でした。
松原:そして10数年の空白を経て、ついに復活するわけですね。
「指派」第一回展では最初の三つの滴になろうとした
松原:2003年の青山での個展で活動を再開して、2006年に指派の第一回展を開催するわけですが、指派はどうして4年間途絶えてしまっていたのでしょうか。
池永:第一回展で私が自分に満足できなかったからです。第一回展の出品者は竹林柚宇子さん、林克彦さん、そして私だったのですが、三人で最初の三つのしずくになろうと決めていました。しかし、私には満足できなかった。
松原:次を望む声も多かったと思いますが。
池永:会う人ごとに「次はいつなのか」と尋ねられていましたが、なかなかそのきっかけがありませんでした。
松原:なのにどうして、今回の展覧会が決まったのでしょう。
そして第2回展へ、もうこれは巡り合わせだと知った
毎年10月16日~18日に開催
池永:それは不思議な偶然でした。あれは昨年の10月18日、雑司ヶ谷の祭りで仲間数人と飲んでいた時、いっしょに飲んでいた秋華洞さんが「なぜ指派をやらないのか」と言うので、つい私も「会いたいひとがいる。その人が指派をやると言えば私はやる」と答えました。その時、今回いっしょに展示する阿部清子さんのことが頭にありました。すると、秋華洞さんが「その人に会えれば指派をやるのですね」と念を押すので、私もつい「今ここに連れて来てくれたら、私は絶対にやる」と言ってしまいました。
すると、現れたんですよ。阿部清子さんが。祭りの人ごみの中から偶然に、金魚入りのビニール袋をさげて。私、彼女が雑司ヶ谷に住んでいる事を知らなかったんです。これはまったくの偶然でした。もうこれは巡り合わせなのだと知って、もう一度「指派」をしようと決めたんです。
阿部清子さんは私の持っていない物をすべて持っている
松原:ずっと阿部清子さんのことが頭にあったということですが、彼女のどんなところに惹かれていたのですか。
池永:阿部さんは私の持っていない物をすべて持っています。私は人の目を見る事ができないから、愛した人とどう関係をもって良いのかわからない。だから私の絵は、躊躇して途方に暮れる私の視線なのです。だけど、阿部さんはそういう私の正面に座って、私を正視しながら、おんなとはどういうものか語ります。だから私は恐ろしい。
土遊びをしていて見上げた空が暗い銀鉛色になってみるみる黒くなるのを恐れながら、自分は絵を描く人に生まれたのだと思った
松原:ところで、池永さんはいつごろから絵を描きたいと思うようになったのですか。
池永:三歳の時、自分は絵を描く人に生まれたのだと思いました。土遊びをしていて見上げた空が暗い銀鉛色になって、みるみる黒くなるのを恐れながら、そう思ったのです。
松原:だから高校も美術科がある大分県立芸術短期大学付属の緑ヶ丘高校に進んだのですね。
池永:私の最初の記憶の二つは家の白い犬の事で、三つ目の記憶が「絵を描く人に生まれたのだ」と思ったことでした。だから高校進学を決めなければいけなくなった時に、「美術の授業がある高校ならどこでもよい」と希望したら、大分市内に芸術専門高校があると指導してもらえたのです。
松原:高校時代はどうでしたか。
サルバドール・ダリの自伝に「私の居場所はどこか」と尋ねていた
池永:西日本中から美術に覚醒した学生が集まっているので、学生はみな自己の好きなものを知っていました。私は自分が曖昧に生きていても自然に絵描きになるのだと思い込んでいたので、誰かの絵に夢中になったり、自分の好きな物を確認した事がなかったんです。だから私には皆の知っていることが解らない。ヴァンゲリスを聞いている友人はシド・ミードやH・R・ギーガーを見ていて、大滝詠一を聞いている友人は鈴木英人や中山泰を見ていた。私もよく解るような顔をして相槌を打っていたんですが、どうやって皆が自分の居場所を決めているのか、不思議な気持ちでした。
松原:池永さんの居場所はありましたか。
池永:小学生になった頃に友達の家に遊びに行って、そうしたら父親の書棚に美術全集が置いてあって、二人でこっそりサルバドール・ダリの画集を見ました。すると、二人で秘密の悪戯をしているような気持ちがしてきて、ページをめくるごとに互いの柔らかい部分に接吻しあっているような錯覚を覚えました。初めての衝動でした。だから、高校生になっても、サルバドール・ダリの自伝だけは持ち歩いていて、「私の居場所はどこか」と尋ね続けました。でもダリ相手のことですから、普通の応えは帰ってきませんね。
人物を描く-人間には思惑があるから思いのままにならない
松原:池永さんの故郷・大分と言えば、豊後南画の系譜があり、現代日本画壇では高山辰雄、岩澤重夫らを輩出していて、九州の中では日本画が盛んな地域だと思います。
それに諸説ありますが、江戸の浮世絵師で歌川派の始祖・歌川豊春も、大分臼杵の出だといわれています。池永さんも、江戸の浮世絵師のような粋な心意気で、現代の美人画を盛り上げていってほしいですね。そのためにも「指派」はぜひ続けていってください。
松原:では、最後になりましたが、池永さんにとって人物画を描くということはどんなことですか。
池永:山を描くひとは山に行かないといけない。姿を見せてもらえない時があるかもしれないけれど、でも山はそこにある。花を描くひとは花を摘みに行かないといけない。姿を消すことがあっても、また季節が巡れば、花は咲いているはずです。でも、いつも人間は傍にいるのに、人間を描くために人間を捕らまえるのは難しい。、人間には思惑があるから捕らまえるのは難しいのです。たとえ、愛した人が画架の前に立ってくれたとしても、そのひとの意思が見せてくれた姿しか描く事はできないのだから、本当に私の思いのままにならないのです。