江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

山梨美術協会の結成

土橋芳次「八ヶ岳高原のお花畠」山梨県立美術館蔵

昭和12年、在京、県内在住者を含めた山梨県出身の美術家たちが、日本画、洋画、彫刻のすべてを網羅して「山梨美術協会」が結成され、東京新宿の高野フルーツパーラーで発会式が挙行された。

当夜の出席者は、県内在住者側からは、堤龍雄、内田一郎、砂田正己、土橋芳次、滝沢忠三、河野良朝、尾沢真三、高見沢重一、山村正次。在京側からは、伊藤好太郎、保坂隆一、小柳津経広、小俣球一、落合泰八、大河内山郷、金田豊、河西草畝、米倉寿仁、高野真美、田中蘭谷土屋義郎名取春仙、中村宗久、牛田喬修、桑原福保、藤井霞郷古屋正寿進藤章古屋浩蔵望月春江らだった。

第1回展は、昭和12年11月3日から7日まで甲府松林軒で開催された。出品者は、第1回展目録によると下記の通り。(この目録には再版があり、それによると名取春遷が不出品で抹消、代りに花輪四郎が出品している)

〔日本画〕早川秀岳、大河内夜江大河内山郷、渡辺綱雄、尾澤恒、河西草畝、金塚義衰、川手青郷、田中蘭谷、名取春遷、村松益造、松山美稲、藤井霞郷古屋正寿、古瀬浦代、近藤浩一路、小林栄樹、小林義次郎、穴山勝堂、篠原良雄、橘田永芳、望月春江望月定夫、須藤良清、矢嶋憐三

〔洋画〕伊藤好太郎、稲葉三郎、磯田長敬、石原簡、花形栄、保坂隆一、土橋芳次、小俣球一、小柳津経広、乙黒行雄、尾沢義一、小川栄政、荻野真琴、小川利政、乙黒弘邦、荻野治雄、落合泰八、渡辺岳洋、若菜寿夫、河西正礼、河村重造、加賀美常造、金丸秋男、米倉寿仁、滝沢忠三、田中竹治、瀧口哲夫、田辺喜規、田中常太郎、高野真美、武井敏夫、竹田春子、土屋義郎辻葦夫、中村宗久、内藤五郎、内海良、長沢義己、中島穰、牛田喬修、宇野忠夫、内田一郎、野沢要、藤島清、桑原福保、功刀鐘二、窪田守義、山村正次、山田政雄、山中重蔵、柳場憲造、古屋浩蔵、古谷茂男、河野良朝、小林輝一、小宮山豊、雨宮幸男、秋山忠雄、座光寺信祥、橘田正光、宮崎亭三、進藤章、篠原正三、清水昌一、杉原董三、砂田正己、鈴木農夫男、鈴木健夫、角田担子、末木芳雄

〔彫刻〕猪股三郎、池田尚哉、金田豊、赤池賢造、樋川治三、数野孝恵、矢野濱子、深澤粂次郎、雨宮静軒

川手青郷(1902-1966)かわて・せいきょう
明治35年山梨県南巨摩郡増穂村(現在の富士川町)生まれ。本名は名美。大正8年川端画学校卒業。のちに堅山南風に師事した。昭和3年第15回日本美術院展に初入選。以後同展に15回入選、昭和15年第27回展で大観賞を受賞した。昭和41年、64歳で死去した。

渡辺綱雄(1904-1947)わたなべ・つなお
明治37年甲府市生まれ。大正10年頃に上京して日本画を学び、大正15年に京都で近藤浩一路に師事した。のちに東京で川端龍子に師事し、青龍社展に出品した。昭和16年応召し中国に渡り、終戦後は帰国し山梨で画業につとめていたが健康を害し、昭和22年、44歳で死去した。

田邊喜規(1897-1986)たなべ・よしのり
明治30年山梨県東八代郡八代村(現在の八代町)生まれ。大正13年東京美術学校西洋画科、ついで研究科を修了した。在学中に藤島武二に師事し、昭和3年に帝展に初入選。同年パリに留学してアカデミー・ジュリアン・及びグラン・シュミエールで研修し、留学中の昭和4年にサロン・ドートンヌに入選した。翌年帰国し、日展、日本水彩画会展、光風会展、東光会展に出品した。昭和12年山梨美術協会の結成に参加し、創立会員となった。昭和61年、89歳で死去した。

砂田正己(1905-1974)すなだ・まさみ
明治30年山梨県西八代郡上野村(現在の市川三郷町)生まれ。正則英語学校に学び、のちに太平洋画会研究所美術学校を卒業した。在学中の昭和3年に太平洋画会展に初入選。以来太平洋画会展のほか、1930年協会展、中央美術展、旺玄会展などに出品、昭和24年太平洋画会自主連立展に入選し、太平洋画会会員となった。昭和4年甲斐美術会の結成に参加。昭和12年山梨美術協会の創立に参加し、創立会員となった。昭和49年、69歳で死去した。

高野真美(1900-1980)たかの・しんび
明治33年山梨県東八代郡一宮町(現在の笛吹市)生まれ。本名は真平。大正11年日本美術学校を卒業し、同校の講師となった。文展、帝展に出品、文展無鑑査となった。槐樹社、旺玄会、大潮会の審査員をつとめた。昭和55年、80歳で死去した。

桑原福保(1907-1963)くわばら・ふくやす
明治40年山梨県東八代郡境川村(現在の笛吹市)生まれ。山梨師範学校専攻科卒業後に教職についたが、本格的に洋画を学ぶために上京。上京後も教職につきながら熊岡美彦に師事し、東光会に所属した。昭和11年文展に初入選し、以後文展、日展に出品した。昭和29年第10回日展で岡田賞を受賞した。戦後は山梨美術協会に所属し、また画塾を開いて後進の指導にあたった。昭和38年、56歳で死去した。

中村宗久(1907-1975)なかむら・むねひさ
明治40年甲府市生まれ。山梨師範学校本科卒業後、県内で教職についたのち、画家を志して東京に転居。精華小学校、鶯谷小学校に勤務しながら昭和10年吉村芳松画塾に入って本格的に洋画を学んだ。昭和12年山梨美術協会結成のため在京美術家の結集につとめ、創立会員として参加した。昭和18年文展に入選、以後太平洋画会、白日会、光風会などに出品。昭和30年新世紀美術協会の創立に参加した。昭和46年山梨美術協会を退会し、白濤会を結成、会長となった。同年甲府市教育委員長になった。昭和50年、67歳で死去した。

土橋芳次(1907-1938)どばし・よしつぐ
明治40年甲府市生まれ。県立農林学校(現在の県立農林高等学校)に学び、独学で洋画を学び、昭和8年洋画を学ぶために上京して熊岡美彦に師事した。昭和11年第1回文展に初入選。翌年には第5回東光会展でM氏奨励賞を受賞した。山梨県内では、はじめ六人社に入会。甲斐美術会にも出品した。昭和12年山梨美術協会の創立に参加し、創立会員となったが、翌13年、31歳で死去した。

内田一郎(1910-1996)うちだ・いちろう
明治43年東京日本橋生まれ。幼少期より山梨県西八代郡大同村大鳥居に住み、甲府中学在学中に画家を志して和田英作の門に入り、大正15年から昭和4年まで師事した。その後阿以田治修について太平洋美術学校に学び、同校研究科を卒業した。創元会創立以来出品を続けた。昭和4年甲斐美術会の結成に参加。昭和12年山梨美術協会の創立に参加し、創立会員となった。平成8年、86歳で死去した。

山梨(26)-画人伝・INDEX

文献:山梨の近代美術