江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

目賀多家に学んだ米沢の絵師たち

左:若井牛山「陶淵明」、右:佐藤雪斎「龍図」

米沢では絵を学ぶ者の大半が目賀多家に入門したことから、狩野派の画風が主流で、主な絵師としては、目賀多雲川守息に学んだ小田切寒松軒をはじめ、目賀多雲川信済に学んだ若井牛山、百束幽谷らがおり、佐藤雪斎、中西南喬も目賀多家に学んでいる。また、明治・大正期、日本画壇旧派の重鎮として活躍した日本画家の下條桂谷も、幼いころ目賀多家に学び、その後東京で活動した。

若井牛山(1799-1871)わかい・ぎゅうざん
寛政11年生まれ。小島内記秀逸の弟。本名は信之。梓山村牛森の若井氏の養子となり、のちに城下に住んだ。目賀多雲川信済に師事し、山水を得意とした。明治4年、73歳で死去した。

百束幽谷(1804-不明)ひゃくそく・ゆうこく
文化元年無足町生まれ。馬廻組・百束只七の長男。初名は徳弥、のちに忠右衛門、諱は秀苗。目賀多雲川信済に師事し、人物画を得意とした。慶応4年、64歳で隠居。

佐藤雪斎(不明-1866)さとう・せっさい
仲之間番頭をつとめた佐藤左七秀政と推測される。目賀多家で学び、「米沢文晁」の異名がある。『飯豊の山ぶみ』(泉崎賢親著)の挿絵などを手掛けた。門人に今府直峰がいる。慶応2年死去した。

中西南喬(不明-1871)なかにし・なんきょう
寛政末年頃の生まれ。目賀多雲川信済に師事した。初名は峯次、諱は素恒。御徒組飛帰家二男で、御廟町居御小納戸組の中西善次の養子になり、文政2年家督を継いだ。蒔絵師としても知られた。明治4年、70歳で死去した。

山形(5)-画人伝・INDEX

文献:米沢ゆかりの絵師たち、米沢市史第3巻(近世編2)、郷土日本画の流れ展