江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま兵庫県を探索中。

UAG美術家研究所

豊後府内藩の狩野派

二代木崎隆川「白水瀧図 」大分県立美術館蔵

府内藩は現在の大分市・由布市の大部分と別府市の一部を支配していた藩で、府内の名はこの地におかれた豊後国府に由来する。鎌倉時代に入ると、大友氏が支配し、21代当主・大友宗麟の時代には、中北部九州を治めるなど隆盛を極めた。宗麟はキリスト教を保護し、海外貿易を奨励したため、この地に南蛮文化がいち早く花開き、後年になって「南蛮文化発祥の地」と称されるようになった。しかし、宗麟の子・義統は朝鮮での失策を理由に改易され、豊後国は豊臣秀吉の蔵入地となった。その後は、竹中家、日根野家などを経て、万治元年(1658)に大給松平忠昭が藩主となり、以後廃藩置県まで十代二百余年にわたり、大給松平氏が府内藩を領有することとなった。

府内藩第五代藩主・松平近形(1723-1773)は、父の隠居により家督を継ぎ、藩財政を再建するなど藩政の統治にあたるかたわら、狩野尚信に画を学んだ。遺作は多くないが、すぐれた作品を残している。近形の子・第六代藩主の松平不騫(1755-1840)も文武を奨励し、自らも狩野由信に学び、藩絵師をつとめていた初代木崎隆川にも学んだ。画作も多く、佳作も少なくない。

府内藩絵師としては、藩の選によって江戸で狩野由信に学んだ初代木崎隆川(不明-不明)がいる。師の由信に従って日光廟の修復御用をつとめたこともある。六代藩主の不騫の寵愛を受け、画作などの援助もおこなった。子の二代木崎隆川(1803?-1872)も父に狩野派を学び、藩絵師をつとめた。

松平近形(1723-1773)
享保8年生まれ。府内藩大給氏第五代藩主。松平近貞の長男。幼い時に藩老津久井家お預けとなり、名も津久井桃之助と称した。府内に帰城後は名も大蔵と改めた。藩政の統治にあたるかたわら狩野派の絵師・狩野尚信に画を学んだ。古国府仏光寺所蔵に十六善神図が残っている。安永2年、51歳で死去した。

松平不騫(1755-1840)
宝暦4年生まれ。府内藩大給氏第六代藩主。松平近形の長男。本名は松平近儔。幼名は秀之助、のちに五左衛門。藩務のかたわら、俳諧をよくし、江戸の雪中庵大島蓼太の門に学び、雪中庵不騫と号し、さらに太乙楼、晩年には雪登斎とも号した。画は狩野由信の教えを受け、藩絵師・初代木崎隆川にも学んだ。天保11年、86歳で死去した。

木崎隆川(初代)(不明-不明)
府内藩絵師。名は英美。藩の命により江戸で狩野由信について画を学んだ。師由信に従って日光廟の修復御用をつとめたこともある。その後、藩の絵師として藩士に召し出され、茶坊主などをつとめた。六代藩主不騫に寵愛され、画作などの援助もした。画歴は不明な点が多いが、府内藩札寿老図は隆川の作であり、絵馬や天井絵も各地に残している。没年は不明だが、75歳の遺作も残っている。

木崎隆川(2代)(1803?-1872)
府内藩絵師。初代木崎隆川の子。名は言美、通称は波之助、または隆蔵。別号に洞月斎などがある。画は狩野派の父に学んだ。門人も多い。明治5年、69歳で死去した。

大分(2)-画人伝・INDEX

文献:大分県画人名鑑、大分県の美術、大分県史

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