岩瀬広隆は京都で生まれ、20代前半には「菱川清春」の名で、菱川師宣五代目を自称し、多くの版本挿画を手掛ける浮世絵師として京都で活躍した。若くして才能を開花させた広隆は、天保年間に『紀伊国名所図会』の挿絵画家として紀伊に招かれ、これをきっかけに名を菱川清春から小野広隆、岩瀬広隆などに変え、制作活動の拠点も京都から紀伊へと移した。紀伊藩10代藩主・徳川治宝のもとでは、復古大和絵派の浮田一蕙や冷泉為恭らとともに『春日権現験記絵巻』の模写なども行ない、のちに紀伊藩のお抱え絵師となって生涯紀伊の地で活躍した。古典に取材した大和絵や風俗画の優品を多く残し、また、様々なジャンルや画題に挑戦し、多種多彩な表現を試みている。
岩瀬広隆(1808-1877)いわせ・ひろたか
文化5年京都生まれ。出自についてはほとんで分かっていない。名は広隆、のちに可隆、字は文可、通称は俊蔵または彦三郎とされる。若い頃は俳優の群に身を投じていたが、のちに画を志したとされる。改姓を繰り返し、多くの画号を用いている。『紀州郷土藝術家小傳』によると画号には、曄齋、清晴、清春、青陽齋、雪艇、広隆、仲昭、昭年、海響、櫻塢、琴泉、文可、鞠園、春窓、崖、菊園、延年、文峰、碧田、可隆、谷、梅軒、松溪、琴屋、琴谷、黄萃、汀梅、雨山、鉄鑾、鐵幹、董庵、林屋、風外、竹石、白雲、米年、半夢などがある。晩年は沙門鉄翁に私淑し南画を描き、林屋、白雲、竹石、米年などの号を用いた。最後の号は「半夢」だといわれる。居を水鏡山房と称し、のちに東郊楠右衛門小路に移ってからは松竹山房、黄心居などと称した。明治10年、70歳で死去した。
玉置邦山(不明-1890)たまき・ほうざん
名は豫、字は萬年、通称は次郎平。居を鏡花水月居と称した。別号に萬齢がある。家号を亀屋と呼んだ。和歌山萬町の造酢家で、岩瀬半夢に学んで南宗画を修めた。詩文を好み、また滑稽洒脱の文を書いた。戯号を酢荷擔幽人と称した。『三名家略年譜』(一名墨林清芬)の著書がある。明治23年、64歳で死去した。
山沢与平(1813-不明)やまざわ・よへい
文化10年生まれ。紀伊藩江戸定府の武士。遠藤広実の門人で、大和絵の名手と称された。紀伊藩10代藩主の徳川治宝の命を受け、古典を題材にした大和絵を描き、古い絵巻の模写なども行なった。
彦坂虎山(1837-1899)ひこさか・こざん
通称は平次郎。別号に虎寒子、嘯仙子がある。幼い頃から書を好み、6歳の時に藩主の前で大書を揮毫したといわれる。維新の頃、岩瀬広隆と同居して画を学び、のちに藤本鉄石について南宗画の画法を修めた。明治32年、62歳で死去した。
福井石叟(不明-不明)ふくい・せきそう
通称は善平。もとは黒江の蒔絵師で、はじめ鎌倉景麟に学んで麟山と号し、のちに岩瀬広隆に師事した。明治初年には中西耕石の門に入って南画に転じ、石叟と号した。明治19年頃には大阪に住み、時世の風潮に従い南画を捨て、再び写生派に戻った。明治30数年に同地で死去した。
栗本梅谷(不明-1919)くりもと・ばいこく
名は諦念、幼名は房五郎。貴志久大夫の三男。梅原の徳号寺に婿に入り、学を修め住職となった。風雅を愛好し、画を岩瀬広隆に、書を芳山石雨に学び、いずれも巧みだった。特に梅を得意とし、和歌も好んだ。大正8年、70歳で死去した。
古谷深翠(不明-不明)ふるや・しんすい
海草郡貴志村生まれ。名は周平、字は寛。医師の家だったが、岩瀬広隆の門に入って南画をよくした。中年になって越後に住んだが、晩年になって帰郷し画に専念した。
金原白玉齋(不明-1826)きんぱら・はくぎょくさい
名は文禮、字は内記、通称は彌三郎。別号に露性齋がある。住吉派の画をよくし、肖像を描くのが得意だった。文政9年、42歳で死去した。
畠山菊處(不明-不明)はたけやま・きくしょ
名は義孝。岩瀬広隆の門に入り画道を修めた。
和歌山(12)-画人伝・INDEX