江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

紀伊の狩野派の画人たち

左:2代山本養和「鍾馗に鬼図」、右:2代山本養和「群鶴図」

紀伊藩に仕えた狩野派としては、岩井泉流のように江戸紀伊藩に仕えたものと、和歌山の紀伊藩に仕えたものがいた。江戸の木挽町狩野の流れを組む画人としては、山本養和、堀端養恒らがいる、堀端養恒の門人らもその流れを守った。また、町狩野としては鎌田堅白やその門人らが活動した。

山本養和(初代)(1776-1829)やまもと・ようわ
安永5年生まれ。別号に松壽齋がある。江戸木挽町の山本泉和の養子。養父と狩野典信に師事した。紀伊藩の御絵師。紀伊藩10代藩主の徳川治宝に仕えた。治宝に同行して紀伊に来ることが多く、紀三井寺の障壁画などが紀伊に残っている。文政12年、64歳で死去した。

堀端養恒(1801-1880)ほりばた・おさつね
享和元年生まれ。名は養恒、通称は晴野、別号に南岡がある。江戸木挽町の狩野養信に師事し、その画法を伝えてよく家風を守った。筑紫翠雲、中尾松榮らもはじめはこの門から出たと伝えられる。明治13年、80歳で死去した。

山本養和(2代)(1834-1917)やまもと・ようわ
初代との関係は不明だが孫ではないかとみられる。江戸木挽町の狩野雅信の門人。はじめ承和と号し、のちに勝和と改めた。初代養和が没したのちに、二代目を襲名した。明治45年、83歳で死去した。

中尾松榮(1843-1917)なかお・しょうえい
名は祥重。和歌山駿河町の人。印判彫刻を家業としていた。余技に狩野派の画をよくした。堀端養恒の門人。大正6年、75歳で死去した。

森養齋(1859?-1928)もり・ようさい
和歌山市内出口端ノ丁に住んでいた。堀端養恒に師事し、のちに岡本緑邨にも学んだ。市役所の戸籍係として勤めていた。昭和3年、70余歳で死去した。

伊能松林(不明-不明)いのう・しょうりん
天保嘉永頃の和歌山の狩野派の画家。江戸晴川院の流れを汲んでいたとされる。鷹の画を最も得意とした。

西山養拙(不明-不明)にしやま・ようせつ
名は久抽、字は子繹、通称は與七郎。別号に養拙齋がある。紀伊藩士で狩野派の画家。

石川逢洲(不明-不明)いしかわ・おうしゅう
名は義路。和歌山の狩野派の画家。明治15年内国絵画共進会に「義家名古会の関」及び「松に鷹の図」を出品している。

加藤東効(不明-1878)かとう・とうこう
名は雄助。紀伊藩の狩野派の御絵師。明治11年、93歳で死去した。

鎌田堅白(不明-不明)かまた・けんはく
安政文久頃の人。名は好武、号は堅白で、のちに堅白齋と改めた。和歌山の町絵師。狩野派の画をよくした。

吉田満海(不明-不明)よしだ・まんかい
和歌山吹上寺町大恩寺の住職。鎌田堅白について狩野派を学び、余技として描いた。明治15年の内国絵画共進会に出品している。

小宮好信(不明-1890?)こみや・こうしん
和歌山新留丁の人。鎌田堅白の門に学んで、狩野派の画をよくした。時流にのらず画風を厳守した。

松井白奎(不明-不明)まつい・はくけい
天保頃の人。名は齋、通称は道榮。狩野派の画を描き、広く交友した。野際白雪らとの寄せ書がある。

中村霞峰(不明-不明)なかむら・かほう
名は玄晴。和歌山の人で狩野派の画家だったが、のちに洋画を研究して、明治14、5年頃に和歌山中学校の教鞭をとった。

和歌山(3)画人伝・INDEX

文献:紀州郷土藝術家小傳