江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

山本梅逸門下の阿波の画人

前田半田「花鳥図」

尾張南画の全盛期を牽引した中林竹洞(1776-1853)と山本梅逸(1783-1856)は、ともに京都に出て、阿波の貫名海屋をはじめ多彩な文化人たちと交遊し、多くの門人を育てた。山本梅逸門下の阿波ゆかりの画人としては、奇人で人気があったといわれる後藤田南渓をはじめ、梅逸の門に入り浦上春琴、貫名海屋にも学んだ浜口煮海、中島来章の門に入り山本梅逸、貫名海屋にも学んだ前田半田らがいる。阿波出身の儒者・赤松藍州の子である小寺芦屋も、山本梅逸と貫名海屋に画を学んだ。藍州の門人である大島梅隠は、後藤田南渓に師事したのちに、師の南渓と共に山本梅逸について学んでいる。

後藤田南渓(1807-1866)ごとうだ・なんけい
文化4年生まれ。麻植郡桑村の人。名は嘉徳、通称は儀十郎、または誼十郎。字は則古。家は藍商の地主だった。24、5歳の時に単身で京都に出て山本梅逸に学び、梅遷と号した。性潔白なところがあり奇行があって人気があったという。師梅逸の愛妾と結婚して南渓と改号した。京都では樵木町に住んでいて、文久の末ごろに兵火にあって帰郷した。『阿波画人名鑑』によると、ある時、商人が明の陳竿の画を売りに来て、南渓は衣服家財を売って300両でこれを買った。火事の時にはただこの一軸だけを抱えて三条河原で平然としていたという。京都復旧後に再遊を図ったが、病気のため慶応2年、60歳で死去した。

片山菊渓(1833-1887)かたやま・きくけい
天保4年生まれ。阿波郡谷島の製藍業吉田屋の末男。名は亀三郎。別号に半酔、菊花隠居がある。村に菊里谷という渓流があり、これからとって菊渓と号した。京都に出て後藤田南渓について学び、さらに嘉永5、6年頃には長崎に出て鉄翁について学んだ。清人・江稼圃とも交流があった。四君子、特に竹を得意とした。明治以降家業が衰退したので山梨県に出て藍作りの教師をした。柴秋邨大島梅隠とも交流があった。明治20年、55歳で死去した。妻の少香も画をよくした。

野口南海(1826-1902)のぐち・なんかい
文政9年生まれ。名は郁三郎。麻植郡児島野口武蔵の子。天保13年から後藤田南渓について学んだ。兄は蘭法医。南海も医が本業だったが、多能の人で画、書、武道に長じ、裁縫の技術も師匠をしていたほどだった。明治17年の内国絵画共進会に出品。日清戦争のころ広島に移住した。韓国にもたびたび旅行していたという。学島の公民館に作品が収蔵されている。明治35年、77歳で死去した。

浜口煮海(1809-1888)はまぐち・しゃかい
文政6年生まれ。通称は富次郎。撫養桑島の人。父は富右衛門。初号は春坡。京都に出て山本梅逸に入門。また浦上春琴、貫名海屋に師事した。明治17年の内国絵画共進会に出品。明治21年、80歳で死去した。

前田半田(1817-1878)まえだ・はんでん
文政14年京都生まれ。名は碩、通称は春太郎、字は子果。別号に青牛、暢堂がある。美馬郡半田の医師・前田養拙の子。中島来章に入門後、貫名海屋、山本梅逸に師事した。しばしば郷里に戻った。京都では画名高く、梅逸の子・梅所が筆を捨てたのも半田にかなわなかったからだという。明治11年、62歳で死去した。

橋本漁山(1828-1905)はしもと・りょうざん
文政11年生まれ。名は二郎。藩の中老稲田筑後の家臣だった。徳島助任槍屋浜の人。前田半田について南画を学んだ。彫刻も巧みだった。明治38年、78歳で死去した。

前田荷香(1833-1905)まえだ・かこう
天保4年生まれ。前田半田の子。明治13年6月京都府立画学校設立の時、出仕教官となった。明治30年の日本南画協会発会の時の発起会員のひとり。明治38年、73歳で死去した。

関連:尾張南画の全盛、中林竹洞・山本梅逸の登場

徳島(8)画人伝・INDEX

文献:阿波画人名鑑