野村玉渓の門は多くの有能な門人を輩出し、さらにその弟子たちも多くの四条派の画家を育てた。とくに松吉樵渓、鷲見春岳、奥村石蘭らの門人たちは明治に入ってから内国絵画共進会をはじめ各地の展覧会に積極的に出品、明治期の中京画壇を盛り立てた。
立松春渓(1842-不明)たてまつ・しゅんけい
天保13年中島郡中牧村生まれ。立松義之の子。通称は孫左衛門。松吉樵渓に師事して四条派を学んだ。明治17年の第2回内国絵画共進会に出品した。
酒井椿渓(1851-1921)さかい・ちんけい
嘉永4年11月丹羽郡小口村生まれ。庄屋・市郎兵衛の長男。名は唯一。別号に山茶園がある。画を松吉樵渓、奥村石蘭に学び、のちに川端玉章の門に入り四条派を学んだ。第2回内国絵画共進会で受賞した。大正10年、71歳で死去した。
佐藤静渓(1852-1909)さとう・せいけい
嘉永5年生まれ。名は正教、字は子訓、通称は利助。別号に椿園、本立堂などがある。はじめ松吉樵渓に学び、のちに立松義寅に師事し、幸野楳嶺、磯部百鱗らと交遊した。晩年は応挙を慕った。明治42年2月15日、58歳で死去した。
日比野文僊(1854-1912)ひびの・ぶんせん
安政元年生まれ。名古屋宮町の釘屋を営んだ商人。通称は文吉。はじめ松吉樵渓に学び、のちに奥村石蘭の門に入った。明治45年3月17日、59歳で死去した。
三浦石斎(1849-不明)みうら・せきさい
嘉永2年4月生まれ。尾張藩石工の子。名は厚隆、字は為美、通称は伝八。別号に雲鶴がる。はじめ若林素文に学び、ついで鷲見春岳に従い、さらに奥村石蘭の門に入った。家業を廃して画を業とし、主に実業に応用した図案模様に力を入れ、篆刻に長じて碑文の書をよくした。名古屋陸軍幼年学校・曹洞宗第三中学林・日本陶器学校の教師となる。のちに職を辞して不老洞画塾を開き門人を育てた。
鷲見有竹(1854-不明)わしみ・ゆうちく
安政元年7月名古屋白山町生まれ。鷲見春岳の二男。名は豊、字は白山人、別号に比君庵主、婆娑亭主、有竹画房がある。幼少より父につき四条派を修め、とくに山水、人物を得意とした。税務官吏の職にあったが、退官して画業に専念した。帝国絵画協会・名古屋春秋会などの会員として活躍した。
鷲見秋岳(不明-1904)わしみ・しゅうがく
名は芸宜。鷲見春岳の弟。兄に四条派を学んだ。名古屋白山町に住んでいた。明治37年8月28日死去。
兼松蘆門(1864-1917)かねまつ・ろもん
元治元年7月生まれ。尾張藩士・兼松正峯の長男。名は亀四郎。別号に松泉がある。はじめ鷲見春岳の門に入り、のちに転じて神保木石、中野水竹に師事して南画を修め、さらに菅原白龍について研鑚し山水を描いた。大正6年8月、54歳で死去した。
鷲見春鄰(1868-1949)わしみ・しゅんりん
慶応4年生まれ。鷲見春岳の三男。名は広治。はじめ父について四条派を学び、さらに京都に出て菊池芳文に学んだ。のちに東京の本郷区湯島に住んだが、その後名古屋に帰り画を業とした。鯉、虎などの動物の写生を得意とした。昭和24年4月、82歳で死去した。
松田樵洞(1870-不明)まつだ・しょうとう
明治3年名古屋生まれ。名は一吉。鷲見春岳に師事して四条派を学んだ。宝飯郡国府町に住んで画を業とした。
波多野一岳(1877-1957)はたの・いちがく
明治10年4月東春日井郡篠岡村大草生まれ。名は金次郎。はじめ奥村石蘭に学び、石蘭没後は鷲見春岳、織田杏斎に師事した。日本陶器に入り陶器の図案と師弟の養成につとめ、また小寺雲洞に教えを受け、はやくから諸展に入選した。鹿の画を最も得意とした。昭和32年4月、79歳で死去した。
島沢柳亭(1849-不明)しまさわ・りゅうてい
嘉永2年9月21日生まれ。名は孝忠。島沢閑叟の子。奥村石蘭に師事した。第2回内国絵画共進会に出品した。。
柳田樵谷(1849-不明)やなぎだ・しょうこく
嘉永2年生まれ。奥村石蘭に師事した。名古屋市島田町に住んで画を業とした。
矢吹璋雲(1852-1927)やぶき・しょううん
嘉永5年7月5日備中吉備郡服部村生まれ。通称は熊次。別号に紫竹園、雲岳がある。三好雲仙の門に入り雲岳の号を受け、名古屋にきて奥村石蘭につき四条派を学んだ。のちに東京に出て川端玉章に師事した。
渡辺杏堂(1862-不明)わたなべ・きょうどう
文久2年8月5日生まれ。尾張藩士・渡辺新左衛門の子。名は正網、通称は覚助。14歳の時に奥村石蘭に学び、のちに幸野楳嶺に師事した。
太田百香(1863-不明)おおた・ひゃっこう
文久3年10月19二井生まれ。太田良哉の子。名は藤吉。奥村石蘭に師事した。
服部石仙(1864-1920)はっとり・せきせん
元治元年12月生まれ。服部雲仙の長男。名は貞博、通称は熊次。別号に石僊、杉村、松柏庵がある。はじめ父に学び、のちに奥村石蘭に師事、さらに京都に出て岸竹堂に従い花鳥をきわめた。小田切春江と尾三各地をまわって古社寺を写生し、また図案所で小田切春江、鬼頭道周とともに補佐として花鳥を写した。大正9年7月、57歳で死去した。
薮本莱山(1865-不明)やぶもと・らいざん
慶応元年11月11日生まれ。薮本八左衛門の子。名は健次郎。奥村石蘭に師事した。
渡辺秋谿(1866-1940)わたなべ・しゅうけい
慶応元年10月生まれ。尾張藩士・斉藤正喬の次子として生まれ、伯母方の渡辺氏を嗣いだ。名は永吉。はじめ奥村石蘭に四条派の画法を学び、のちに久保田米僊に師事し、京都府立画学校教授となった。その後名古屋に戻り仙洞画塾を開き多くの門人を育てた。晩年は南画に専念し、東海美術協会顧問として中京画壇のために尽くした。昭和15年5月、75歳で死去した。
河原木鶏(1866-不明)かわはら・もっけい
慶応2年名古屋冨士塚町生まれ。名は鉄次郎。河原彦治郎の養子となり、奥村石蘭に師事した。
小寺雲洞(1871-1930)こでら・うんとう
明治4年12月生まれ。尾張藩士・小寺竹洲の子。名は鈴彦。はじめ奥村石蘭の門に入り四条派を修め、のちに京都に出て竹内栖鳳に師事した。鶏を得意とし、東海美術協会理事長などをつとめ中京画壇のために尽くした。昭和5年1月、60歳で死去した。
神戸凌雪(1871-不明)かんべ・りょうせつ
明治4年名古屋門前町生まれ。名は直三郎・直盛、字は盛卿。別号に操軒、蔔邦、喬松軒、玄遠斎がある。20歳の時に奥村石蘭の門に入り四条派を学んだ。石蘭没後は、京都の森川曽文、今尾景年に従い、景年の塾頭となった。修業ののちに名古屋に戻り、名古屋青年絵画会を設立した。その後東京に居を移して橋本雅邦に師事して研鑚を重ねた。
伊藤華城(1872-不明)いとう・かじょう
明治5年生まれ。はじめ奥村石蘭に学び、のちに石川柳城に師事した。
奥村石亭(1874-1945)おくむら・せきてい
明治7年5月生まれ。奥村石蘭の長男。名は季彦。はじめ父に学び、のちに磯部百鱗の門に入った。家業をつぎ四条派の画を描いた。名古屋高等工業学校および愛知県立工業学校の画学教師を30年務めた。日本美術協会で銅賞5回、大阪博覧会で褒状を受けた。春秋会幹事を務めるなど中京画壇のために尽くした。昭和20年3月、72歳で死去した。
石井春鳳(1875-不明)いしい・しゅんぽう
明治8年9月16日葉栗郡葉栗村生まれ。石井義翁の孫。別号に子葉がある。はじめ奥村石蘭に学び、のちに望月金鳳に師事して四条派を修めた。
立松輝石(1876-不明)たてまつ・きせき
明治9年9月17日名古屋鉄砲町の森家に生まれ、のちに立松氏を嗣いだ。名は秀、字は如晦、通称は新三郎。別号に五采堂主人がある。はじめ奥村石蘭に学び、のちに京都に出て幸野楳嶺、竹内栖鳳に師事して栖鳳会の部長となった。一時名古屋に戻り、それから東京に出て大村西崖、結城素明と無声会に入って活動した。
牧野松亭(1879-不明)まきの・しょうてい
明治12年生まれ。奥村石蘭、奥村石亭について四条派を学んだ。名古屋市中区東橘町に住んでいた。
竹内吉鳳(1882-不明)たけうち・きちほう
明治15年名古屋生まれ。名は鈴樹。別号に柏雪、畊雪、雪家がある。はじめ奥村石蘭につき、ついで久保田金僊、渡辺秋谿に学び、福井江亭に師事した。さらに西山翠嶂の指導を受け、大鵬会同人として活動した。
水野清亭(1893-1920)みずの・せいてい
明治26年12月17日生まれ。名は清。京都絵画専門学校卒業、はじめ奥村石蘭につき、のちに福井江亭に学んだ。文展に連続入選し将来を嘱望されたが、大正9年6月22日、28歳で死去した。
尾張(17)-画人伝・INDEX
文献:愛知画家名鑑