森高雅の門人の中でも多くの弟子を育てたのが、日比野白圭(1825-1914)と木村金秋(1833-1917)である。白圭は、はじめ竹田景甫に学び、ついで鈴村景山の門に入り、さらに森高雅に従って土佐派を修めた。ひとつの派の画法にとどまらず、各派をとりいれ独自の画風を切り拓いた。門人には村上華雲、鬼頭道周、尾関圭舟、日比野圭文らがいる。
金秋は、森高雅に土佐派を学び、日比野白圭と競いあいながら、古画を模写研究し、とくに藤原信実、田中訥言を私淑した。葦原眉山、小田切春江、奥村石蘭らと同好社を組織し、後進の指導にあたった。また小田切春江と『凶荒図録』を著し、工芸品の意匠改良につとめ、明治期の美術振興に尽くした。門人には、岡本硯農、加藤雨艇、堀暁中、太田研斎らがいる。
村上華雲(1862-不明)むらかみ・かうん
文久2年4月2日丹羽郡生まれ。通称は敬一。日比野白圭に学び、その後奥村石蘭につき、さらに鈴木松年に師事する。各種博覧会で銀賞・金賞を受賞した。
岩沢松圭(不明-1931)いわさわ・しょうけい
知多郡大野生まれ。通称は勘兵衛。日比野白圭の門に入り、土佐派の画法を学んだ。昭和6年12月1日死去。
鬼頭道周(1874-1943)きとう・どうしゅう
明治7年1月名古屋日出町生まれ。名は道周、通称は隆三郎。鬼頭道恭の子。はじめ父道恭と日比野白圭に学び、のちに上京して橋本雅邦に師事した。日本橋箱崎町に住み、主に土佐派を研究し、自ら新狩野の一派を興した。昭和18年3月、70歳で死去した。
田中青桃(1879-不明)たなか・せいとう
明治12年12月中島郡一宮生まれ。明治39年に名古屋に移って教育に従事した。公務の余暇に画を土岐三江、日比野白圭に学び、のちに秦金石に師事、また森半渓にも学んだ。
前田秀邦(1882-不明)まえだ・しゅうほう
明治15年3月9日名古屋生まれ。名は豊七。日比野白圭について土佐派の画法を修め、のちに上京して橋本雅邦に学んだ。
尾関圭舟(1883-不明)おぜき・けいしゅう
明治16年名古屋生まれ。別号に圭秋がある。日比野白圭に土佐派を学び、中区南鍛治屋町に住み、専門名家として知られ、中京画壇で活躍した。
日比野圭文(1889-不明)ひびの・けいぶん
明治22年生まれ。日比野白圭の子。父に土佐派を学んだ。名古屋東区桜町に住んでいた。
佐々白鶯(不明-不明)ささ・はくおう
戦国武将・佐々成政の子孫といわれる。日比野白圭に土佐派を学び、名古屋市中区大井町に住んで画を業とした。
岡本硯農(1849-1923)おかもと・けんのう
嘉永2年5月生まれ。名は久敬。はじめ木村金秋に土佐派を学び、山菊を得意とした。のちに来朝した清人・胡鉄梅から南画を学び、各地に同行して研鑚した。南画を描くかたわら顔料調製法を修め、自ら製造して用いた。大正12年10月19日、74歳で死去した。
加藤雨艇(1858-1916)かとう・うてい
安政4年4月名古屋呉服町生まれ。名は彬、字は経明、通称は菊三郎。別号に梧雲、蘿石、臨池堂がある。16歳の時に木村雲渓につき四條派を学び、かたわら川崎千虎に有識故実を修め、のちに木村金秋に師事した。その後南宗画に移り、元明の古法を学び、達磨を得意とした。渡辺秋谿、森村冝稲たちと研美会を組織し、画界の発展に尽くした。大正5年2月、59歳で死去した。
生駒石渓(1862-不明)いこま・せっけい
文久2年石川県生まれ。名は筍吉。名古屋に来て、木村金秋、奥村石蘭、久保田米僊に学び、山水・花鳥を描いた。
今泉楳渓(1869-不明)いまいずみ・ばいけい
明治2年名古屋生まれ。別号に梅渓、楳啓がある。はじめ木村金秋に土佐派を学び、のちに竹内栖鳳に師事した。
島田素言(1869-不明)しまだ・そげん
明治2年7月28日名古屋生まれ。名は束稲。奥村石蘭に四條派を学び、木村金秋について土佐派を修めた。名古屋市中区大池町に住んで画を業とした。
堀暁中(1875-1932)ほり・ぎょうちゅう
明治8年岐阜生まれ。はじめ佐脇波登麿につき、さらに木村金秋の門に入り土佐派の画法を学んだ。明治43年の新古美術展にを出品ている。森村冝稲に次ぐ巧者といわれたが、世才に乏しく名利にこだわらず、清貧のうちに画をたのしんだ。人物を得意とした。妻は柴田芳洲の娘で、また画を描いた。昭和7年11月9日死去。
小関秋華(1875-不明)おぜき・しゅうか
明治8年8月海部郡甚目寺村西今宿生まれ。名は玉三郎、字は禎。別号に可信園、竹陰居がある。菊池芳文、木村金秋、渡辺秋谿に師事し、山水と得意とした。
太田研斎(不明-不明)おおた・けんさい
木村金秋につき土佐派の画法を修めた。名古屋市中区南鍛治町に住み画を業とした。
下村春章(不明-不明)しもむら・しゅんしょう
知多郡大高生まれ。生年は不明だが明治34年に川崎千虎の門に入り、同36年に木村金秋についた。38年に上京して川端玉章の塾に入り、6年にわたり研鑚を重ね、知多郡大高町に住み画を業とし、名声が高かったと伝わっている。
尾張(13)-画人伝・INDEX
文献:愛知画家名鑑