神谷天遊ら大パトロンの存在により相当量の中国画が尾張の地に蓄積され、画家の研鑚の場も充実、画壇が活況を呈する条件が整えられていった。こうした時代にこの地で若い時期を過ごした中林竹洞、山本梅逸は、まさに時代の申し子で、彼らを中心に尾張南画が全国的規模で受け入れられるようになり、南画家の制作活動やそれを支える享受層が飛躍的に発展、尾張の南画は全盛を迎えた。
中林竹洞(1776-1853)は、名古屋の医者の家に生まれ、尾張南画の祖・丹羽嘉言が活躍する草創期に幼年期を過ごし、寛政年間に入ってから尾張南画中興の祖・山田宮常と出会い師事、その後、大パトロンである神谷天遊宅へ寄宿し修業することになる。「蓬瀛勝会」などの書画会で多彩な文化人と交流しながら刺激をうけ、画術を深めていった。享和2年、天遊の死を契機に山本梅逸とともに京都に出るが京都画壇で成功を収められず帰郷、13年後に再度上洛し、そのあとは京都に住んだ。
竹洞より7つ年少の山本梅逸(1783-1856)は名古屋の彫刻師の家に生まれ、幼少の頃から画の才能を示したが、この時期は、嘉言、清狂らが相次いで世を去り、尾張南画が変質期に入った時期だった。梅逸は浮世絵師の山本蘭亭、四条派に近い画風の奇才・張月樵ら南画とは違う師を持たざるを得なかったが、その後、神谷天遊により南画の世界に導かれた。梅逸は南画とは異なる師から受けた技術の上に、南画的な方向性や技法を加え、風俗画的人物画や装飾的傾向の強い花鳥画を自分のものとしていった。天遊の死後は竹洞とともに京都に出るが失敗、郷里に帰る竹洞と別れて全国各地の遊歴へと旅立った。そして二度目の上洛で京都に住み、晩年は名古屋に戻った。
中林竹洞の弟子たちは山水画にすぐれた作品を残したものが多い。多くは京都における弟子たちであるが、郷里の美濃に帰ってその画風を伝えた高橋杏村、江戸へ出て活躍した勾田台嶺、名古屋時代の弟子には玉井鵞渓がいる。
高橋杏村(1804-1868)たかはし・きょうそん→参考:岐阜07
文化元年生まれ。名は九鴻、字は景羽、通称は惣右衛門。別号に爪霜、鉄鼎、鹿遠草堂がある。美濃安八郡神戸村の人。若い頃に京都に出て竹洞に師事して南画を学んだ。帰郷して弘化元年に「鉄鼎学舎」を開き、漢籍と画法を伝授した。門人は大変多く、尾張から三河に遊歴しその地方にまで門人がいた。子の湘雲もまた画をよくした。明治元年死去。
中林清淑(1831-1912)なかばやし・せいしゅく
天保2年生まれ。名はくに。竹洞の娘。父に南画を学び、京都に住んだ。花卉、特に梅図を得意とした。明治45年5月5日、82歳で死去した。
中林竹渓(1816-1867)なかばやし・ちっけい
文化13年生まれ。中林竹洞の長男。名は成業、字は紹父、通称は金吾。別号に画河居士がある。竹洞の子。世と相容れず、心配に思った父が梅逸のもとに修業に出した。すぐれた才能を持ち、父親譲りの品格ある画を描いたが、片意地で協調性がなく、才能を十分に発揮することができなかったとされる。慶応3年4月22日、52歳で死去した。
勾田台嶺(1772-不明)まがた・だいれい
安永元年生まれ。名は寛宏、字は文饒。竹洞に師事し、のちに江戸に出て広瀬臺山に師事した。花鳥、水墨ともに品格ある画を描いた。嘉永頃死去。
勾田香夢(不明-不明)まがた・こうむ
名は清。名古屋の人。勾田台嶺の妻。白猫の美人画で知られる。四君子や浅降山水も得意とした。
玉井鵞渓(不明-1862)たまい・がけい
名は裔、字は裔涯、通称は貞次。別号に月皋、鵞溪、鴬囀居主人がある。伊勢山田に生まれ、文化3年名古屋に来て永坂養二の門に入り外科を学び、灰取町長栄寺門前に住んで医を業とした。寂照寺の僧・月僊に円山派を学び、さらに竹洞の門に入り南画を学んだ。元明清の墨画を残した。花鳥山水すべて竹洞に似ていたといわれる。文久2年5月22日死去。
中野水竹(1822-1886)なかの・すいちく
文化5年生まれ。名は堯教、通称は進一郎。名古屋鴬谷に生まれ、竹洞、梅逸に師事した。天保10年に尾州藩絵事御用掛となり、同門の岡本梅英と幕府献上の岐阜提灯に描いた。常に多くの仲間や門人と月次会を開いて研究し、老後は書画と詩歌を楽しんだ。明治19年1月5日、79歳で死去した。
高木雪居(不明-不明)たかぎ・せっきょ
名は秀真、通称は八郎右衛門、別号に大応、雪居、大翁がある。尾州藩重臣。文武両道に秀でていて、行動的な性格で、藩の世継ぎに関する陳述書で幕府より幽閉されたり、若い志士たちを集めて「金鉄堂」を組織し、明治維新に活躍するなどした。和歌や絵にも気力あふれる作が多く、はじめ谷文晁に問い、のちに竹洞に学び、本格的な作風、技術も進んで取り入れた。
尾張(8)-画人伝・INDEX