趙陶斎(1713-1786)は、来泊清人と花魁との間に生まれたとされ、幼いころ父母と死別し、長崎で竺仙禅師について出家し黄檗僧となった。宇治の萬福寺を経て、江戸で十数年を過ごしたのち、大坂の塩町(現在の大阪市中央区)に移り住み、58歳頃から堺に移り、庭に枸杞を植え枸杞園と称した。
書家として名声が高く、唐様の書の第一人者とされ、頼春水、木村蒹葭堂、十時梅厓、増山雪斎、森田士徳らが書の門下となる。また、画もよくし、頼春水より「高致にして画家の及ぶ所に非ず」と評された。酔後の興に応じて、墨画を描くことが多かったという。
趙陶斎(1713-1786)ちょう・とうさい
正徳3年生まれ。長崎の人。名は養、字は仲頤。号は陶斎、息心居士、息心斎、柯杞園、清暉閣。幼少期に竺仙禅師につき出家し黄檗僧となり、のち帰俗して諸国を歴訪し、その後大坂に移った。書画・篆刻に優れ、文微明や趙孟頫、米芾に傾倒した。明和7年堺に移り晩年を過ごした。『在津紀事』では、酒を飲んで豪宕不羈とされ、蕭然たる一野人とも記されている。天明6年、74歳で死去した。
大阪(22)-画人伝・INDEX
文献:近世大阪画壇、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大阪画人