田能村直入(1814-1907)の叔父・渡辺蓬島は田能村竹田の初期の師のひとりということもあり、直入は幼いころから画に強い興味を示していて、9歳で竹田に師事した。竹田はその画才を愛し、直入は養子となり田能村姓を継ぐこととなった。以後は竹田と生活をともにし、竹田の画法だけでなく、その考え方にいたるまで広く感化を受けながら成長していった。
竹田に従って行動していた直入は、中央の文人墨客と接する機会も多く、天保5年には竹田に同行した大坂で大塩平八郎に出会いそのまま洗心洞に入塾、篠崎小竹や広瀬旭荘らとも親交を重ねた。
直入が22歳の時に師竹田が大坂で没したため、一時帰郷したが、26歳で故郷を出て堺におよそ7年間滞在、その後大坂の中心地に22年間住んだ。堺では画塾を開いていたが、大坂からの門人が増えたため画塾を大坂に移したという。明治元年からは京都に定住、展覧会にも積極的に出品し、内国絵画共進会や内国勧業博覧会などで受賞を重ね、京都画壇の重鎮としての地位を固めていった。
また、南画の指導者としても大きな業績を残している。明治11年には画学校設立の建白書を京都府に提出、明治13年に京都府画学校(のちに京都市立美術工芸学校と改称)が発足すると、初代校長をつとめた。さらに明治24年には自宅を増築して南宗画学校を設立、明治30年には富岡鉄斎らとともに日本南画協会を結成するなど、南画の復興と後進の指導に尽力した。
田能村直入(1814-1907)
文化11年竹田市生まれ。豊後岡藩士・三宮利助の三男。渡辺蓬島の甥。名は癡、のちに小虎。字は顧絶。別号に飲茶菴主人などがある。文政5年、9歳の時に田能村竹田に師事した。のちに田能村姓を継ぐようになった。天保5年には竹田に同行して大坂に行き、大塩平八郎の私塾洗心洞に入塾した。次第に京都や大坂の文人との交流を深めていき、天保10年には堺に居を定め、のち弘化3年には安土に移転、明治元年には京都に定住し、号を直入に改めた。明治11年、京都府に対し画学校設立の建白書を提出し、明治13年に画学校用掛に任じられて京都府画学校の設立に尽力した。明治24年には自宅に南宗画学校を設立、明治30年には日本南画協会の結成に参加した。明治40年、94歳で死去した。
大分(16)-画人伝・INDEX
文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵名品図録