江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま兵庫県を探索中。

UAG美術家研究所

竹田門の四天王のひとりに数えられた博学者・後藤碩田

水墨画山水「後藤碩田」大分県立美術館蔵

後藤碩田(1805-1882)の生家は乙海村(現在の大分市鶴崎)にあり、酒造、煙草や穀物売買などを手広く行なっていた豪商で、碩田の父・守只は、家業に励むかたわら、華道や茶道などの文化面にも高い関心を示し、各地の文人たちと広く交友していた。また、この地は海に面しており、船舶の出入りする港があったことから、文人墨客たちの往来も多く、田能村竹田も京都方面に出るたびに、必ず後藤家に立ち寄っていたという。

そんな文人・知識人たちが集う環境のなかに育った碩田は、幼いころから日出の帆足万里に儒学を、中津藩の渡辺重名や肥後藩の長瀬真幸に国学を学び、その後は京都に遊学して香川景樹、伴信友に師事した。碩田の学問に対する関心はさらに広がり、史学、考古学などの学問から、射法、砲術などの武芸、さらには茶道、生け花、歌道などの芸能まで、学んでいないものはないというほど、さまざまな学問を修学し、豊かな教養を育てていった。幕末には、肥後藩の宮部鼎蔵、岡藩の小河一敏らと尊王攘夷運動に走り、長州藩士ともつながり、豊後国内で尊王思想を広めた。

絵画と詩は田能村竹田に学んだが、竹田から受けた指導は期間も他の門人に比べ短く、碩田自身も南画に専念していたわけではないが、個性的な作画を続け、のちに高橋草坪帆足杏雨田能村直入らと並んで竹田門の四天王と称されるようになった。しかし、本格的な画人ではなく、むしろ南画をよくした碩学の学者として評価されている。

また、古刀、古器物、古記録などのコレクションマニアで、家が裕福だったこともあり、手当たり次第に買い集めて研究していたという。その集大成が代表作である『碩田叢史』といえる。『碩田叢史』は、碩田が編纂・収集した資史料で、原本455冊が大分県立先哲史料館に収められている。それらは、碩田が購入したもの、自分で写したもの、人に写させたもの、著述したものなどからなっており、日本や大分県の歴史を研究する上で欠かせない貴重な資料となっている。

後藤碩田(1805-1882)
文化2年大分郡乙津村生まれ。豪商・後藤守只の三男。名は真守、字は大化、通称は今四郎。別号に斌楽斎、耕雲主人、遊技三昧堂などがある。後藤家は諸藩御用達の商家で、酒造、煙草及び穀物売買など手広く行なっていた。日出藩の帆足万里に儒学を、中津藩の渡辺重名や肥後藩の長瀬真幸に国学を、京都では香川景樹、伴信友に師事した。絵と詩は田能村竹田に学び、竹田門の四天王のひとりに数えられた。明治4年に西寒多神社の神官となり、明治13年には権大講義に任命された。編纂・収集した『碩田叢史』のほか、画集『大化帖』を出している。明治15年、78歳で死去した。

大分(17)-画人伝・INDEX

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、豊後の博学 後藤碩田、後藤碩田の偉業、大分県立先哲史料館研究紀要第16号「後藤碩田の情報収集」、大分県立芸術会館所蔵作品選

  • B!

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...