江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま兵庫県を探索中。

UAG美術家研究所

中信地方に南画を本格的に紹介した古曳盤谷

古曳盤谷「三皇・楼閣山水図」(三幅対)

古曳盤谷(1807-1885)は、伯耆国会見郡榎大谷(現在の米子市榎原)に生まれた。父盤嶺は医者で儒者だったが、文武両道に秀でており、盤谷は父から医術、漢学のほか武術も学び、さらに幼いころから絵筆をとった。成人になって画家への志が強なり、33歳の時に家を捨てて諸国遍歴の旅で出た。

盤谷はまず、大阪の岡田半江のもとに3年間身を寄せて山水画の筆法を学び、さらに、京都で尾張南画の山本梅逸について花鳥画の筆法を学んだ。さらに東海、東山を遊歴し諸国の名家と交わる旅を続け、弘化4年信州に入った。

信州では善光寺平に起きた大地震に遭い、難を避けて松代に逃れ、さらに佐久に足を延ばして岡田半江門で同門だった加藤半渓を訪ね、半渓の紹介で松代藩士・佐久間象山と出会った。盤谷と象山は、旧知の仲のように意気投合し、以後深く交流した。

その後、盤谷と象山は相次いで江戸に出て、二人で共同生活をはじめ、多くの文人たちと交流した。しかし、藤本鉄石ら勤皇の志士らとも交わっていたため、反幕の疑いをかけられ、盤谷はそれから逃れるため、象山の勧めで信州松本飯田町の医師・降旗氏宅に寄寓することになった。嘉永6年、盤谷47歳の時だった。

その後、降旗氏の娘寿恵子と結婚し、鋤竹斎と号して家塾を開き、画と漢詩を教えた。家塾には多くの門人が集まり、この地域の南画の普及に大きく貢献することとなった。塾内では門下生が「鋤竹園社」を結成し、毎月書画会を開いて画と詩の向上をはかった。

慶応2年、盤谷の還暦を祝う書画の展覧会が開催され、全国の作家から数百点に及ぶ作品が寄せられた。これが松本地方の美術展のさきがけになったといわれている。また、明治7年には門下生とともに「和睦社」を結成し、79歳で没するまで、この地方の南画の研究普及に貢献した。

古曳盤谷(1807-1885)こびき・ばんこく
文化4年伯耆国会見郡榎大谷生まれ。通称は要三郎、諱は愿、字は秀信、または正民。文政12年に伊勢参宮の旅に出て九州方面を歩き勤皇思想を持った。天保11年実家及び養家の医業を捨て、妻と子4人を残して諸国を遍歴、京坂の地で岡田半江に師事、3年後に名古屋の山本梅逸のもとに行き南画を学んだ。江戸で佐久間象山ら勤皇派知識人と交流し、幕府ににらまれ、嘉永6年信濃国松本城下飯田町医師・降旗氏宅に寄寓。住居を鋤竹斎と名づけ、家塾を開いた。弟子に藤森桂谷らがいた。安政5年から5年ほど諸国の旅に出るが、慶応2年60歳の還暦を記念して松本城下で書画大展覧会を開いた。明治7年門下生により和睦社が結成され、盤谷が中心になって南画の研究を行なった。明治18年、79歳で死去した。

佐久間象山(1811-1864)さくま・しょうざん(ぞうざん)
文化8年信濃国埴科郡松代町(現在の長野市)生まれ。幼名は啓之助、のちに修理。鎌原桐山、町田源左衛門に師事した。18歳で家を継ぎ松代藩士になった。上田の活紋禅師に学び、天保4年江戸に出て、林大学頭、佐藤一斎に学び、渡辺崋山、梁川星巌らと交遊し、帰郷した。天保10年再び江戸に出て、神田阿玉ケ池に象山書院塾を開いた。高野長英、藤田東湖らと国政を論じた。天保13年国防策を幕府に提案。48年藩命により大砲六門を鋳造。前後してガラス、電信機、写真機を試作。電気治療法や種痘法を研究した。ハルマ和蘭辞書を改訳して幕府に出版するように進言している。嘉永6年ペリーが米艦隊を率いて浦賀に入港。弟子の吉田松蔭に外国行きをすすめたため翌年蟄居を命じられた。文久2年許され、元治元年将軍家茂の招きで京都に移ったが、開港の急務を唱えたことが浪士を刺激し暗殺された。54歳だった。

※「象山」の読みは「しょうざん」が一般的だが、象山の故郷・松代を中心とした地区では「ぞうざん」が多数派である。

長野(16)-画人伝・INDEX

文献:信州の南画・文人画、松本の美術 十三人集、長野県美術全集 第1巻、松本市美術館所蔵品目録 2002、新修米子市史 第2巻(通史編 近世)、長野県美術大事典

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