田能村竹田が生涯もっとも親しく交遊したのが頼山陽(1781-1832)である。山陽は日本外史を著したことで知られる漢詩人で、大坂で生まれ広島で育ったが、その後、居を京都に定め、多くの文人・画人と交流した。竹田と同郷の雲華上人とも旧知の仲だった。
文政元年、山陽は父春水の法要をすませ、九州遊歴の旅に出た。この遊歴は1年あまりにも及び、旅の終わりに中津の正行寺に友人の雲華上人を訪ね、16日間滞在している。この時に雲華上人は、当時まだ「耶馬溪」の名はない山国渓谷を、奇観、景勝好きの山陽に案内した。山陽は山国渓谷の景観を見て絶賛し、「耶馬溪の風物、天化に冠たり」と、その景観を耶馬溪と名付けた。そしてその景観を描き、雲華上人に贈るが焼失してしまったため、文政12年、残っていたデッサンをもとに8メートルにも及ぶ大作《耶馬溪図巻》を描いた。これが文人の間で評判となり、一躍耶馬溪の名が広まることとなった。
この際、雲華、山陽に道案内をしたのが曽木墨荘(1772-1838)である。墨荘は、小倉藩で村の農政に治績をあげた為政者であり、書画を愛する文人でもあった。耶馬溪の青の洞門で知られる青村の出身で、奇観、景勝の地などに詳しく、《耶馬溪図巻記》にある漢詩文には、墨荘の名前が随所に記されている。『竹田荘師友画録』によると、墨荘は、梅を愛し、うしろの庭に数株を植え、そばに書斎を造り、中に鉢の蘭を置いていた。終始正座して、詩を作り、書画をかき、それに倦きると琴を奏でた。書や画は必ずしも苦心して作らない。書画を作るのは、民を治め政に従わせるやり方と同じで、すべてこれを自然にまかせるという具合だったという。
頼山陽(1781-1832)
安永9年大坂生まれ。父は儒者の頼春水。名は襄、字は子賛、のちに子成。通称は久太郎、にちに徳太郎、さらに久太郎に戻した。別号に三十六峰外史がある。その居を水西荘、山紫水明処、三面梅花処と名付けた。父・春水が広島藩儒に登用されたため広島に移住し、7歳から叔父・杏坪に学び、寛政9年に杏坪が藩命で江戸に赴く時も従った。江戸では尾藤二洲、服部栗斎に学び、翌年広島に戻った。寛政12年脱藩して京都に逃げるが連れ戻され自宅に幽閉された。享和3年に幽閉が解かれ、頼家を廃嫡された。その後菅茶山の廉塾の塾頭となるが、ここを逃亡、京都に戻って私塾を開き、文人グループの中心的人物として多くの文人・画人と交遊した。著書に『日本外史』などがある。天保3年、53歳で死去した。
曽木墨荘(1772-1838)
安永元年下毛郡曽木村生まれ。家は代々の大庄屋。曽木円助の長男。幼いころから学問を好み家業を継がず、医学を志し、漢学も学んだ。豊後中津藩の儒者・野本雪巌、杵築の三浦梅園らに学んだ。その後、熊本に遊学して高本紫溟に漢学や漢詩、画を学び、村井琴山について医学を学んだ。この頃、田能村竹田と親交を深めた。頼山陽、田能村竹田、恒遠醒窓、松川北渚、また中津藩で甲州流兵学や山片流馬術の師範をつとめた八條半坡、そして末広雲華上人などと交遊した。梅や蘭を愛し、盆栽蘭を作り、それを描いた。天保9年、67歳で死去した。
大分(12)-画人伝・INDEX
文献:没後百五十年頼山陽展図録、「海路」頼山陽・田能村竹田らと交流した多能な才人 手永大庄屋 曽木墨荘の生涯