江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

幕末の越後画壇で画名を高めた長谷川嵐渓

長谷川嵐渓「清和時節図」

長谷川嵐渓(1814-1865)は、蒲原郡三条町(現在の三条市)で醤油醸造を営んでいた会津屋吉右衛門の長男として生まれ、20歳頃に越後を訪れた漢学者・大槻磐渓に従って江戸に出て、はじめ春木南湖に師事し、のちに仙台の菅井梅関について学んだ。

その後も、中国絵画を研究するなど研鑽を積んでいたが、父の死により帰郷。家業を助けるかたわら作画活動を続け、幕末の越後画壇で画名を高めた。後進の指導にもあたり、村山半牧、本間翠峰ら多くの門人を育てた。

長谷川嵐渓(1814-1865)はせがわ・らんけい
文化11年蒲原郡三条町(現在の三条市)生まれ。名は熊蔵、諱は荃、字は芳孫、また香峰とも称した。初号は墨霞。張嵐溪と称した。若くして江戸に出て大槻磐渓に入門。画は春木南湖に学び、のちに仙台に行き菅井梅関に学んだが、父の死により帰郷した。家の近くを流れる五十嵐川に因み嵐渓釣徒と号し、山水画を得意とした。慶応元年、52歳で死去した。

北海雪山(1824-1896)ほっかい・せつざん
文政6年刈羽郡尾松村(現在の栗原市)生まれ。庄屋・細山忠三郎の長男。幼名は道徳。父の死後、忠三郎を襲名した。はじめ山岸氏守の家塾に学び、14歳の時に長谷川嵐渓に画を学び、中島淡水に書を学んだ。庄屋として重用され、桑名藩柏崎陣屋に常勤したという。明治になって一時、三条民生局長官に就任したこともある。隠居後の明治11年に上京、さらに京都に行き田能村直入に師事。のちに大阪、四国、九州などを遊歴した。明治29年、73歳で死去した。

小松南渓(1826?-1890)こまつ・なんけい
文政9年頃三島郡片貝村(現在の小千谷市)生まれ。浄照寺22世観雄の三男。名は恵明。初号は橡渓、別号に半山、翠谷道人、清逸堂がある。藍沢南城に学び、画は長谷川嵐渓に師事し、彫刻もよくした。明治13年、55歳で死去した。

竹山渭渓(1831-1900)たけやま・いけい
天保2年蒲原郡熊森村(現在の燕市)生まれ。名は祐一。竹山宗家16代当主に就き、眼科医を業とした。画を長谷川嵐渓に学び、熊森の鎮守諏訪神社の拝殿に龍の絵が残っている。明治33年、70歳で死去した。

五十嵐香壑(1836-1923)いからし・こうがく
天保7年魚沼郡小千谷村(現在の小千谷市)生まれ。名は麗景。長谷川嵐渓に師事し、神官をつとめるからわら絵筆をにぎった。大正12年、88歳で死去した。

本間翠峰(1841-1877)ほんま・すいほう
天保12年蒲原郡樋曽村(現在の新潟市)生まれ。生まれてすぐに巻に移った。名は栄、栄吉、字は子欣。初号は峰翠。別号に荻渚がある。14歳で多賀二峰に雇われたが、二峰に画才を見出され、安政5年に長谷川嵐渓に入門した。明治2年に新潟に移り画業に従事し、明治6年から県の捕亡吏(警察官)となった。明治10年の第1回内国勧業博覧会に絵を出品したが、その入賞の報が届く前に、37歳で死去した。

渡部解古(1842-1915)わたなべ・かいこ
天保13年蒲原郡須賀村(現在の新潟市)生まれ。須賀村庄屋・渡部丹池の長男。名は忠熹、字は寛成。長谷川嵐渓に師事し、慶応元年の嵐渓没後は、京都の山本梅逸に師事したと伝わっている。明治22年第5回パリ万国博覧会に草木と果物の細密画百種を描いて出品し褒賞を得た。大正6年、74歳で死去した。

古関静山(不明-不明)こせき・せいざん
蒲原郡栗林村(現在の三条市)生まれ。長谷川嵐渓に師事して山水画を得意とした。

小林長陵(1847?-1884)こばやし・ちょうりょう
弘化4年頃古志郡長岡町(現在の長岡市)生まれ。小林門蔵の三男。名は義兼、通称は廉造。画を飯島文常と長谷川嵐渓に学び、19歳で京都に遊学した。また、元治元年頃に江戸に出て、書を中沢雪城に学んだ。明治17年、38歳で死去した。

新潟(09)-画人伝・INDEX

文献:記憶に残る新潟の画家、越佐の画人、三条市歴史民俗産業資料館所蔵作品集、にいがた幕末の絵師、越佐書画名鑑 第2版