江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

台湾の美術振興につとめた郷原古統と木下静涯

郷原古統「海裳」(二曲一双のうち左隻)

日本統治時代(1895~1945)の台湾には、教育者として渡った信州人も多く、昭和2年(1927)に創設された台湾美術展では池上秀畝矢沢弦月らが審査員をつとめるなど、芸術家も多く台湾を訪れている。そのなかでも、長く台湾に留まり美術教育や画家の育成に尽力した日本画家に、郷原古統と木下静涯がいる。

現在の松本市に生まれた郷原古統(1887-1965)は、松本中学校で東京美術学校鋳金科を出た諏訪出身の武井真澂に学び、同校卒業後は上京し、日本画を丹青会で、洋画を白馬会葵橋研究所で学び美術学校の受験に備えた。

明治40年、20歳の時に東京美術学校日本画科に合格し、文部省給費生となり、のちに師範科に転科した。明治43年の同校卒業後は、京都女子師範学校の美術教師になり、その後は大阪府、愛媛県の学校に赴任した。

大正6年、30歳の時に台湾総督府の招きで台湾に渡り、以後、昭和11年に帰国するまでの20年間、台湾の美術振興のために尽力した。前半は、台中第一中学、台北第三高等女学校、台北第二中学、台北女子高等学校で教鞭をとり美術教育につとめ、後半は、台湾美術展の創立委員・審査員として会の発展につとめ、第1回展から第9回展まで出品した。

昭和11年、日本に残していた養父母を養うために帰国、兵庫県芦屋に移住し10年ほどを過ごしたのち、昭和21年に郷里に帰り、その後は、求めに応じて風景画や花鳥画などを描く悠々自適な晩年を送った。

駒ヶ根市出身の木下静涯(1887-1988)は、郷原古統が渡台した2年後に台湾に渡り、昭和20年の終戦まで同地で日本画家として幅広い活動をし、台湾に渡った芸術家たちの食住の面倒をみたりもした。

静涯が台湾に渡ったきっかけは、大正7年に画友3人とともに出かけた仏画研究のためのインド旅行で、その帰りに台湾に立ち寄り展覧会を開催していたが、会期中に友人の一人が腸チフスにかかったため、その看病のため静涯が同地に残留することになり、それが起縁となり、終戦までの28年間を台湾で過ごすことになった。

静涯の台湾時代の制作活動についての詳細は定かではないが、残された資料によると、大正13年、摂政宮(後の昭和天皇)の渡台の際に、台南市より委嘱されて蕃地風景絵巻3巻を制作したとされる。また、郷原古統とともに台湾美術展の日本画審査員に名を連ねており、昭和3年から15回つとめている。

終戦翌年に帰国し、故郷の中沢に戻ったが、その後、北九州市小倉に移住。作品展を小倉や久留米市、故郷の駒ヶ根市で開催するなど健筆をふるい、昭和63年、102歳の天寿を全うした。

郷原古統(1887-1965)ごうばら・ことう
明治20年東筑摩郡筑摩村三才(現在の松本市三才)生まれ。名は藤一郎。堀江柳市の二男。幼時に伯父の郷原保三郎の養子となった。松本開智小学校を経て松本中学校に進み、武井真澂に学んだ。明治39年同校卒業後に上京、丹青会、白馬会葵橋研究所で学び、明治40年東京美術学校日本画科に入学、師範科に転科して明治43年に卒業した。京都女子師範に美術教師として赴任したが、翌年休職して中国大陸南部に研修旅行に出た。その後も大阪府、愛知県で教師をした。大正3年大正博覧会に入選。大正6年台湾に渡り台中中学、台北女子高等学院などで約10年間教師をした。昭和2年台湾美術展が創設されると創立委員・審査委員として第1回展から出品、昭和7年には栴檀社を主宰して台湾の画家を育成した。昭和10年の第9回展に出品したのを最後に、昭和12年には帰国し兵庫県芦屋に移住。終戦の翌年に郷里に帰った。昭和27年に松本市内で古統日本画個展を開催した。昭和40年、78歳で死去した。

木下静涯(1887-1988)きのした・せいがい
明治20年駒ヶ根市中沢上割生まれ。木下久太郎の長男。名は源重郎。12歳頃から田中亭山について絵の手ほどきを受けた。明治34年中沢尋常高等小学校を卒業後、中沢上割分教場で代用教員をつとめ、そのかたわら木下琴斎に俳諧を学んだ。明治36年上京して中倉玉翠の門に入り、ついで四条派の村瀬玉田に師事した。明治40年東京勧業博覧会で「細雨」が入賞。同年12月、戸山学校第六大隊に入隊したが、胸膜炎のため翌年2月に除隊。この年の秋、京都の竹内栖鳳に入門したが、1年後再び東京に戻った。大正7年台湾に渡り、昭和20年の終戦まで同地で日本画家として活動した。総督府郵便30年記念葉書の制作や、台湾神社、建功神社への奉額のほか、総督府、台中神社、州庁、大学、全島の学校の講堂から作品委嘱を受けた。昭和21年の帰国後は故郷の中沢に戻り、昭和24年北九州市小倉に移住。昭和49年米寿記念作品展を小倉と久留米市で開催。昭和51年郷里の駒ヶ根市赤穂公民館で作品展開催。昭和63年、102歳で死去した。

長野(49)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第4巻、松本の美術 十三人集、松本平の近代美術、郷土美術全集(上伊那) 、長野県美術大事典