江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

明治の洋画壇に水彩画を定着させた丸山晩霞

丸山晩霞「八ヶ岳」長野県立美術館蔵

丸山晩霞(1867-1942)は、小県郡禰津村(現在の東御市)に生まれた。はじめ渋温泉の児玉果亭に師事して南画を学び、17歳で洋画家を志して上京、神田錦町にあった勧画学舎に入って油彩を学んだ。19歳の時に一時帰郷して小学校の代用教員をつとめていたが、21歳の時に再び上京、当時国沢新九郎のあとを継いだ本多錦吉郎の彰技堂に入塾した。同塾の先輩には浅井忠、小川芋銭、岡精一、下村為山らがいた。

しかし、間もなく彰技堂は閉鎖され、それに家庭の事情も重なり、23歳の時に再び帰郷、家業の蚕種販売を手伝いながら制作し、この年の第3回内国勧業博覧会に油彩画を出品した。また、100日間修業した定津院住職から「晩霞天秀」の法名を受け、以後「晩霞」と号した。

明治28年、28歳の時に家業の手伝いで群馬県沼田に滞在中、利根の清流を写生している吉田博に出会った。当時の吉田博は20歳前で、晩霞より9歳若かったが、吉田の精緻で写実的な水彩画の技巧に晩霞は驚愕し、この出会いがきっかけで、のちに晩霞は油彩を捨て水彩画家として生きていく決意をする。

吉田の影響もあって、晩霞は、明治31年に明治洋画会創立10周年記念展に水彩画25点を出品した。さらに、吉田の紹介で、ヨーロッパから帰国して間もない三宅克己を知り、その勧めで明治33年、満谷国四郎、河合新蔵、鹿子木孟郎とともに渡米、前年すでに渡米していた中川八郎、吉田博と合流して、ボストン、ワシントンで展覧会を開催した。作品はよく売れ、一同は大金を得てヨーロッパに渡り各地を遊歴した。

明治34年、晩霞は単独で帰国、その後は郷里の禰津村に画室を設けて制作し、翌年には太平洋画会の設立に参加した。また、三宅に替わって小諸義塾で図画の教鞭をとり、同塾の教師だった島崎藤村とも親交を結び、青木繁坂本繁二郎らの訪問も受けた。

明治38年、大下藤次郎に誘われて上京、太平洋画会研究所や日本水彩画会研究所で後進の指導にあたり、国産水絵用材研究所を設けて画材の開発にも着手した。また、大下が発行していた美術雑誌「みずゑ」の編集にも携わり、水彩画の発展につとめ、三宅克己、大下藤次郎らとともに明治の洋画壇に水彩画を定着させた。

丸山晩霞(1867-1942)まるやま・ばんか
慶応3年小県郡禰津村(現在の東部町)生まれ。本名は健作。家業は養蚕、蚕種製造業を営む農家。小学校卒業後、明治17年に17歳で上京し勧画学舎で学んだ。19歳で帰郷し、禰津小学校の代用教員になった。21歳で再上京、本多錦吉郎の彰技堂に学んだのち帰郷、農業を手伝った。23歳の時、第3回内国勧業博覧会に油絵が入選。同年菩提寺の住職より「晩霞天秀」の法名を授けられ、以後「晩霞」と号した。28歳の時、群馬県沼田町で吉田博を知り、水彩画に魅了され、明治31年の明治美術会10周年展に水彩画を出品、以後同展に出品を続けた。明治32年渡米、ヨーロッパをまわって翌年帰国した。明治35年、太平洋画会の創立に参加。一時小諸義塾につとめたが、明治38年に上京し、太平洋画会研究所水彩画講習所の主任となり、のちに大下藤次郎と独立して水彩画講習所を設け、各地で水彩画講習会の講師をした。明治40年の第1回文展、翌年の第2回展に入選。明治43年には長野県下で作品頒布会を開催。明治44年再渡欧した。帰国後に帝国ホテルで欧州作品展を開催し258点を出品。大正2年、日本水彩画会の創立に参加、以後同展に出品した。大正6年には朝鮮半島に、翌年には中国・青島に、大正12年には中国、東南アジア、インドを旅行したほか、国内各地を旅行して風景画を多作した。また、大正6、7年頃から水彩画を軸装して新日本画と称して頒布した。県内各地で制作を続け、次第に華麗な高山植物を描くようになった。門人に神津港人、佐藤武造、小山周次、関晴風らがいる。昭和11年、生地禰津にアトリエ「羽衣荘」を新築したが、この年の春の南洋旅行で健康を害し、昭和17年、76歳で死去した。

長野(35)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第2巻、上田・小県の美術 十五人集、信州の美術、郷土作家秀作展(信濃美術館) 、長野県信濃美術館所蔵作品選 2002 、長野県美術大事典、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語