仙台城下に生まれた菅井梅関は、早くから画才を発揮し、長じて仙台来訪中の画家・根本常南に師事して本格的に画の修業を始めた。その後は、家業を弟にまかせて、瑞鳳寺の僧・南山古梁をめぐる文化サークルのなかで成長していった。
やがて京都に上り、東東洋宅に寄寓しつつ古画の模写につとめるとともに、当時流行していた南蘋派の画家たちや伊勢の画僧・月僊、岸駒らと交流し、さまざまな画風を吸収して画技を深めていった。さらに、偶然手に入れた中国画家・江稼圃の描いた扇図に感動し、江稼圃に師事するため長崎に旅だった。
長崎には10余年留まり、やがて活動の拠点を大坂、京都に移し、頼山陽や篠崎小竹らと親交を重ね、南画壇の中堅へと成長していったが、母の死とそれを継いだ弟の失明の報せを受け、帰郷することとなった。菅井家の家業には諸説あり特定されていないが、梅関の商法によってたちまち倒産したという。
家業の倒産で貧窮していた梅関だが、仙台画壇で南画を広めようと画業は積極的に展開した。しかし、江戸や京坂のようには南画の需要はなく、活動は行き詰まり、悪いことに時代は天保の飢饉を迎える。さらに、東東洋や南山古梁の死、支援者の死などもあって、梅関は酒におぼれることも多くなり、やがて自暴自棄になって61歳の生涯を閉じたという。井戸に身を投げての自殺だったと伝わっている。
菅井梅関(1784-1844)すがい・ばいせき
天明4年生まれ。初名は智義、名は岳、字は正卿、通称は善輔、のちに岳輔。別号に東斎、伴夢生がある。はじめ根本常南に師事した。長崎で江稼圃に師事した。長崎に10余年留まり、帰途京都、大坂、江戸で頼山陽、篠崎小竹らと交遊した。弘化元年、61歳で死去した。
菅井田龍(1820-1904)すがい・でんりゅう
文政3年生まれ。菅井梅関の養子。二代目梅関を名乗った。本姓は高橋。名は壽、通称は助治、別号に南岳がある。梅関没後は、長崎に行き18年間鉄翁祖門について学んだという。長崎から帰ってから各地を遊歴したが、北海道で脳障害を起こし、半身不随となったが左手だけで描き続けたという。明治37年、85歳で死去した。
栗村北沙(1799-1858)くりむら・ほくしゃ
寛政11年生まれ。菅井梅関の門人。名は義迪、字は子啓、通称は四郎助。別号に伏水、天豫々がある。天保年中、評定所役人となり、養賢堂目付けを経て、御證文預主立となった。安政5年、60歳で死去した。
宮城(10)-画人伝・INDEX
文献:仙台四大画家、仙台画人伝、仙台市史通史編4(近世2)、仙台市史特別編3(美術工芸)、東北歴史博物館美術工芸資料図録、 仙台市博物館館蔵名品図録、福島美術館優品図録