江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

伊勢に円山・四条派を広めた岡村鳳水と門人たち

磯部百鱗 左:伊勢音頭図、右:曾我兄弟之図

岡村鳳水の主な門人である上部茁斎、榎倉杉斎、荘門為斎の門からも優れた画家たちを輩出した。とくに上部茁斎の門から出た林棕林(1814-1898)は、江戸に出て谷文晁渡辺崋山らと交遊し名声を高めた。さらに棕林の門からは磯部百鱗らが出て、伊勢における円山・四条派の系譜が確立していった。

林棕林(1814-1898)はやし・そうりん
文化11年生まれ。名は維幸、字は善卿、通称は刑部。神職・松田幸益の子で、神職・林直信の養子となった。13歳で上部茁斎の門に入った。それ以来、昼夜をたがわず、天地間に存在する森羅万象、大は山嶽河海から小は鳥獣蟲魚に至るまで写生し、その写生帳は30余巻に及び、すべてがいい出来だったという。天保7年に彦根の城主・井伊直亮が大老の職につくと、棕林は祈祷師として江戸に上がり、谷文晁、渡辺崋山、春木南湖、鏑木雲潭、椿椿山、大窪詩佛、菊池五山、市河米庵ら多くの文人と交流し、名を高めた。江戸から戻ったのちも、諸国を漫遊し各地の文人たちと交遊した。門人は200人を下らず、その中から磯部百鱗、中野素梅、為田秋齋、溝口春塘らが出た。明治31年、85歳で死去した。

山口耕雪(1810-1849)やまぐち・こうせつ
文化7年生まれ。山田浦口町に住み、幼い頃から画を好み、荘門為斎の門人となって画をよくした。嘉永2年、40歳で死去した。

廣田篁齋(1818-1881)ひろた・こうさい
文政元年度会郡大湊生まれ。名は正陽、別名は範恒常陵、通称は筑後、幼名は丑三郎。大湊八幡の神主・中須左近治興の二男。廣田正方の養子となった。はじめ上部茁斎に学び、のちに京都の横山清暉の門に入った。明治14年、64歳で死去した。

飯田素亭(1821-1871)いいだ・そてい
文政4年山田上中之郷町生まれ。名は和義、幼名は為四郎、諱は御船、俗称は久太夫、のちに久平、公利ともいった。河崎清厚の四男で、飯田家の養子となった。画を好み、上部茁斎について学び「素亭」と号し、のちに横山清暉の門に入って「竹外」と号した。常に囲碁を好んだ。明治4年、51歳で死去した。

林連舟(不明-不明)はやし・れんしゅう
山田中之郷の人。名は周防。幼い頃から画を好み、荘門為斎の門に入って修業し、のちに狩野派風の画を描いた。丹後国で死去した。

三重(14)画人伝・INDEX

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳、伊勢市史第三巻近世編