狩野山雪「雪汀水禽図屏風」(右隻部分)重文
京狩野の祖・狩野山楽には、光教という実子がいたが若くして没したため、門人の山雪が娘婿となって狩野家に入った。九州肥前に生まれた山雪は、幼い時に父とともに大坂に移住したが、16歳の時に父を亡くし、山楽に入門して画家を目指した。山楽に学んだほか、宋の牧谿なども研究し、結果的には永徳晩年の怪奇様式を引き継ぎ、さらにそれを高めていく方向へ進み、幾何学的な造形美を生み出した。
山楽の没後は京狩野を相続し、九条家の保護を得て、清水寺、妙心寺、天祥院、東福寺、泉涌寺といった京都の諸寺院に多くの屏風や襖絵を描いた。正保4年には、京都・東福寺の伝明兆筆「三十三観音図」を補写した功績によって法橋に叙せられた。
義父にも増して学問好きで、常々「中国の故事人物を描くのに本伝を読まず、俗説に惑わされて図様をまちがう者が少なくない」と語り、俗流を嫌い、藤原惺窩や那波活所ら儒学者と交わって古典を研究した。
学者肌で、綿密に計算された幾何学的な画面構成で異彩を放った山雪だったが、晩年は不遇で、慶安年間に、詳しい事情は不明だが、なにかのトラブルで投獄されている。九条家の助命運動によってなんとか救出されたようだが、ほどなく世を去った。
狩野山雪(1589-1651)かのう・さんせつ
→京狩野の祖・狩野山楽
京都(63)-画人伝・INDEX
文献:狩野永徳と京狩野、狩野派決定版、日本絵画名作101選、日本の美術14 桃山の障壁画、原色日本の美術27在外美術(絵画)、日本美術絵画全集・第12巻