江戸時代後期、熊本は時習館、再春館を擁し学問の府として知られ、熊本に学ぶべく各地から多くの文人墨客が訪れた。天明2年には佐竹蓬平が長崎から熊本に入り、文政元年には頼山陽、小田海僊、文政10年には田能村竹田が熊本を再訪した。彼らは学問を通じて当時の熊本の学者たちと交流し、次第に熊本にも南画受容の基盤が培われていった。そして、幕末から明治にかけての全国的な南画ブームを迎えることとなるのである。
熊本における南画の祖としては、野田鋤雲『肥後画家大系』では、藩医で再春館医学監となった村井樵雪を挙げており、その門人に肥後土佐派の祖と称された福田太華がいる。そして太華の門人で、熊本で最初に南画を本格的に学んだ人として挙げられるのが、佐々布篁石(1817-1880)であり、近代熊本南画の嚆矢と称されている。
篁石は、代々二百石の藩士の家に生まれたが、18歳の時に藩政上の意見の相違から同士数名とともに閉門蟄居の身となり、終生仕官することができなくなった。そのため、絵によって身を立てるべく、父の反対を押し切り福田太華の門に入った。この頃の絵は、大和絵系の武者絵であったらしく、子孫の家に伝わっている。その後、安政年間に長崎を経て熊本を訪れた斎藤畸庵との出会いによって南画に転向、のちに長崎にわたって畸庵に師事した。佐々布篁石の門人には後に熊本南画界の第一人者と謳われる梶山九江がいる。
佐々布篁石(1817-1880)
文政14年熊本古京町生まれ。名は直方、通称は準助、のちに才三郎と改めた。はじめ福田太華の門に入り、花鳥、人物の画技を学んだ。その後、長崎を経て熊本を訪れた斎藤畸庵と出会い師事、南画に転向した。明治5年、55歳の時に熊本を離れ、三重、山梨の各地を転々としたあと、明治13年長野に向かったが、同年、伊那において63歳で死去した。
熊本(8)-画人伝・INDEX