江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

土佐化政画壇の中心人物・楠瀬大枝と門人

楠瀬大枝「松桜図」

楠瀬南溟の子・楠瀬大枝(1776-1835)は、国学者の道に進んだが、父の門人である松村蘭台を敬慕し、独学で画を研究、土佐の化政画壇の中心人物となった。大枝の門からは三名家と謳われた古屋竹原、徳弘董斎、橋本小霞をはじめ、黒岩金岳、島崎呉江、吉川烏山、山本巴江、町田竹塢、高松小埜、それに女性画家の武藤細鸞、松田翠玉、高野蕊玉が出た。他にも、愛山、志静、今村楮堂、吉井蕉石、植木北江、清水蘭露、竹村菜橋、楠瀬棠原、武市正恒、本田屋竹棠、野村静斎ら多くの門人がいる。

楠瀬大枝(1776-1835)
安永5年生まれ。楠瀬南溟の長男。母は粟井氏。通称は雄太郎、のちに忠八、六太と改めた。名が大枝、号ははじめ東松園、のちに烏浴、棠園棠翁、烏鷺山人、六大山人を用いた。童笑、無昇居士の戯号もある。父の跡を継いで藩吏となった。幼いころから谷真潮らについて学問を学び、国学者の道を進んだ。画は独学であり、松村蘭台を敬慕していた。文化3年から南画家として活躍しはじめ、桜花の画法を得意とした。日記『燧袋』を残している。文化・文政・天保期の土佐画壇の中心人物として知られている。天保6年、60歳で死去した。

志静(1784-1854)
天明4年に越後長岡領古志郡漆山に生まれた。名は徹翁、字は大休、志静道人と号した。文化の末に土佐に来て江口瑞応寺の住職になり、天保5年からは真如寺の住職。楠瀬大枝に画を学んだ。嘉永7年、71歳で死去した。

黒岩金岳(1785-1853)
天明5年生まれ。当時の江の口村に住み、早くから楠瀬大枝の門に入り、詩を作り、画を描いた。嘉永6年、69歳で死去した。

武藤細鸞(1788-1855)
天明8年生まれ。名は里。高知上町福山屋・宮内彦市の娘。17歳で美濃屋武藤忠五郎平道に嫁いだ。和歌を夫・平道に、画を楠瀬大枝に学んだ。安政2年、68歳で死去した。

島崎呉江「吸江図」

島崎呉江(1795-1853)
寛政7年生まれ。通称は鹿造、のちに磯六と改めた。字は淑遊、名は之魚。家が楠瀬大枝と隣り合わせだったため、親族同様の付き合いをしており、松村蘭台の門人である島本蘭溪とともに大枝を訪ね、師風を継承した。文政10年、清国漂流者の護送の際に大枝の従者として長崎まで赴いて見聞を広めた。山内家の御用にも関わり、絵のほかに篆刻もよくした。嘉永5年、59歳で死去した。

吉川烏山(不明-不明)
通称は勘三郎、名は茂抱、字は君如。別号に蓄石がある。和歌にもすぐれていた。唐人町に住み、紙細工職人だった。画ははじめ狩野派を学び、のちに楠瀬大枝に師事した。

町田竹塢(1810-1886)
文化7年生まれ。町田丈兵衛。名は清知、字は有年。巣枝園とも称した。楠瀬大枝に学び山水墨竹をよくした。小霞、董斎、晴江らと交遊した。明治19年、77歳で死去した。

高知(12)画人伝・INDEX

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち近世土佐の美術、海南先哲画人を語る