大野麦風(1888-1976)は、東京に生まれ、洋画家の長原孝太郎に学んだ。明治42年第3回文展で初入選し、以後、白馬会、太平洋画会、光風会など洋画団体の展覧会に出品した。大正2年には小石川の元白馬会洋画研究所跡に自ら洋画自由研究所を開設して後進の指導にあたった。
大正3年、初の個展を京都で開催するが、この後に洋画から日本画に転向したと思われ、大正8年の第1回帝展では日本画部で入選を果たしている。
大正12年、関東大震災を機に淡路島に移住し、その後西宮に転居し、以後はここを拠点とした。昭和5年に兵庫県美術家連盟の創立に参加し、戦後は兵庫県日本画家連盟の委員長をつとめ、最晩年には兵庫県美術祭にも連続して出品した。
生来の魚好きで、魚類をモチーフにした作品を多く描いているが、「魚の画家」として麦風の名が広く知られるようになったのは、昭和12年から6期に分けて西宮書院から出版された木版画集『大日本魚類画集』の原画を手掛けたことが契機だった。
麦風はこの企画のために水族館に通うだけでなく、和歌浦沖合で潜水艦に乗り込み、そこで見られる魚類の生態を観察したうえで原画制作にのぞんだという。版画制作にもこだわり、原色木版二百度手摺りという手法で原画を再現し、博物学的な関心も集めた。
同版画集の刊行に際しては、洋画家の和田三造が監修をつとめ、題字は谷崎潤一郎と徳富蘇峰が担当した。魚類学者の田中茂穂と釣り研究家の上田尚による解説書がつけられ、ほかにも正木直彦、岡田弥一郎、結城素明、小杉放菴、石井柏亭、小川芋銭、村上華岳、林重義、西村新が賛助員として名を連ねている。
大野麦風(1888-1976)おおの・ばくふう
明治21年東京生まれ。本名は要蔵。はじめ長原孝太郎に画の手ほどきを受け、太平洋画会研究所、白馬会洋画研究所で学んだ。明治42年第3回文展で初入選し、以後も第8回文展、第1回帝展に入選、ほかに大野要三画会、麦風画会などを開催し自作の展示を行った。大正12年に関東大震災を機に関西に移住した。昭和5年兵庫県美術家連盟の創立に参加し、以降ほぼ毎回同展に出品した。昭和12年から19年にかけて全6輯72作品によって西宮書院から刊行された木版画集『大日本魚類画集』の原画を手掛けた。戦後は兵庫県日本画家連盟の委員長をつとめた。昭和51年、87歳で死去した。
兵庫(36)-画人伝・INDEX
文献:兵庫ゆかりの日本画家たち展、兵庫の美術家県内日本画壇回顧展、コレクションでたどる姫路市立美術館の25年、兵庫の絵画100年展、大野麥風と大日本魚類画集