江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

草土社で岸田劉生と行動をともにした横堀角次郎

横堀角次郎「細き道」群馬県立近代美術館蔵

群馬県勢多郡大胡村(現在の前橋市堀越町)に生まれた横堀角次郎(1897-1978)は、大胡尋常高等小学校を卒業し、旧制前橋中学校(現在の県立前橋高校)に入学した。同中学校の一級上には日本画家の礒部草丘、鋳金家の森村酉三、一級下には洋画家の南城一夫がいた。在学中は、同窓の河原侃二、中島晩輝と夏休み中の小学校で3人展を開催するなどの活動もした。

大正3年、アメリカにいた伯母の望みで渡米することになり、語学を学ぶため上京して東京芝の正則学校に転校した。同校では2カ月後に山形から転校してきた椿貞雄と同級となり、椿の影響で油絵を描きはじめ、椿に連れられて6歳年上の岸田劉生を訪ねるようになった。

大正4年、18歳の時に第15回巽画会展で3等賞銅牌を受賞。このことがきっかけで本格的に画家の道を進むことになる。同年、草土社第1回展に出品、岸田劉生、木村荘八、中川一政、椿貞雄らとともに草土社創立同人のひとりに名を連ね、最後となる第9回展まで出品し、岸田と行動をともにした。

大正11年、再興日本美術院洋画部の脱退者と草土社が合流するかたちで春陽会が結成され、岸田や椿が客員として参加する一方、横堀は審査を受ける立場として第1回展から出品、第1回展、第2回展と連続して春陽会賞を受賞した。大正14年には岸田が他の会員との不和から春陽会を脱退したが、横堀は同会に留まり、昭和5年には会員に推挙され、以後没するまで春陽展に出品し続けた。

岸田が去った春陽会に留まり、関東大震災後に京都に移住する岸田の誘いも断って東京に残ったことから、岸田と横堀の決裂は決定的なものとなり、二人は袂を分かつこととなった。しかし、このことが横堀にとって岸田からの呪縛が解けるきっかけとなり、春陽会の画家たちとの交流のなかで自身の画風を確立させていった。長年取り組むようになる赤城山の風景を描き始めるのもころ頃である。

当時の春陽会には日本画室があり、小杉放菴や中川一政、森田恒友らが作品を発表しており、横堀も「木黄」の雅号で水墨画も手がけ、昭和43年には中川紀元、水谷清らと墨彩会を結成した。

横堀角次郎(1897-1978)よこぼり・かくじろう
明治30年勢多郡大胡村(現在の前橋市堀越町)生まれ。明治44年大胡尋常高等小学校を卒業。同年旧制前橋中学校に入学。同窓に河原侃二、中島晩輝、礒部草丘、森村酉三、南城一夫らがいた。大正3年東京芝の正則学校に転校、椿貞雄と同級になった。この頃から椿とともに岸田劉生を訪ねるようになった。大正4年巽画会第15回展に「自画像」を出品、3等賞銅牌を受賞し、本格的に画家を目指すようになった。同年岸田劉生を中心とする洋画家グループ「草土社」の創立に参加。劉生の影響を受けた風景画や静物画を描いた。23歳の時、小石川の野島邸で油彩画約30点による最初の個展を開催。草土社展へは大正11年の最後となる第9回展まで出品、その後は春陽会に出品し、第1回展で春陽会賞を受賞、翌年も受賞、昭和5年会員となり没するまで出品した。大正13年、三岸好太郎、斎藤清次郎、倉田三郎、川端信一、土屋義郎らと春陽会の若手画家6人で麗人社を結成し、第1回展を数寄屋橋の村田画房で開催、第2回展からは鳥海青児も加わった。昭和16年群馬美術協会の創立に参加。戦後は個展やグループ展にも活動の場を広げ、昭和22年、同郷の礒部草丘と北村明道と三酉会を結成、銀座の資生堂ギャラリーで三人展を開催し、第3回展からは森村酉三も加わった。同年春陽会群馬支部を創設。昭和25年の県美術会第1回展から審査員、運営委員として参加、毎回出品した。昭和32年群馬県在住の神保和幸、南城一夫、清水刀根、中村節也らとの「五人展」を前橋の鈴木ストアで開催。岸田劉生がつけた雅号「木黄」で水墨画も手がた。海外にも取材し、戦前には満州国、戦後はアメリカ、欧州、晩年にはメキシコにも足をのばし、その成果を個展で発表した。昭和53年、81歳で死去した。

群馬(24)-画人伝・INDEX

文献:横堀角次郎作品展、群馬の近代美術、群馬の美術 1941-2009 群馬美術協会の結成から現代まで、北関東の近代美術、群馬県人名大事典