湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


71.ダーリング

第一話:魅惑の女医さん

最近ノドの調子が悪くて、今までだましだまし過ごしてきたのですが、先週末酔った勢いでカラオケに行ってしまい、よせばいいのにジュリーを熱唱し、ついにノドが壊れてしまいました。

しかたないので病院に行こうと思い、ネットで耳鼻咽喉科を探していたら、近所にやたらと評判のいい女医さんがいる耳鼻咽喉科の医院を見つけました。その医院に対する掲示板の書き込みときたらかなり熱烈で、病院の感想とは思えないものまでありました。

もうこれは行くしかありません。ボクはイソイソとその医院へと出かけました。

その医院は、路地の奥まったところにあり、小さいながらも小奇麗な外観はいかにも感じのいい女医さんがいそうな雰囲気で、心なしかその辺りにはいい香りが漂っているような気さえしました。

医院に入り周りを見渡しながら受付で説明を聞いていると、奥の診察室に白衣を着たお医者さんの姿がチラッと見えました。一瞬でしたが、その姿は紛れもない美貌の女医さんで、ボクはウキウキしながら待合室のソファに腰を下ろし、受付でもらった「病状の設問用紙」に上の空で書き込みながら、自分の番が来るのを待ちました。

しばらくして名前を呼ばれたので、診察室に入ってみると、女医さんはイスに座ってボクが書いた「病状の設問用紙」を熱心に読んでいました。ボクはしばらく立って待っていたのですが、彼女がなかなか顔を上げないので、女医さんに一歩近づきながら、「そこには書いてないんですが、先日カラオケでジュリーのダーリングを歌ってから声が出なくなったんですよ」と、声をしぼり出しながら言いました。

もちろんそんなことはどうでもいいことなのですが、ちょっとした笑いがほしかったわけです。まぁ、よくあることです…。

ところが彼女はニコリともせず、ちょっと顔を上げると、奥に置いてある小さな丸イスを指差しながら、「ここへすわってください」と低い声で言い、スラリと伸びた足を組み直しながら、その丸イスの方向に向き直りました。

ボクは言われた通りに、その丸イスに座ろうとしたのですが、このイスがどうしたことかとても座りにくくて、グラグラして回転しそうなのをなんとか抑えて必死になってバランスをとりながら、やっとの思いで女医さんの方を向きました。

もちろんその時は、ただイスが座りにくいと思っていただけで、それからあんな展開になろうとは思ってもみませんでした。

第二話:たそがれに顔を向けてくれ

その異常に座りにくい丸イスは、腰掛けるとグニャグニャと揺れながら回転し、まるでロデオマシンにまたがっているかのような乗り心地でした。ボクは振り落とされないようにやっとの思いで丸イスにしがみついていました。それでも女医さんが笑ってくれれば少しは救いもあるのですが、彼女はニコリともせず、しばらくボクを観察してから素っ気なく言いました。

「足を組んでください」

この状態で足を組むというのはかなりの難題です。それでなくてもやっとの思いでバランスを保っているのですから、そのうえ足を組むとなるとイスから転げ落ちるかもしれません。

しかし、彼女がそう言うのも無理はないと思いました。実は「病状の設問用紙」には、最初に耳、鼻、喉のどこが悪いのか丸を付ける欄があったのですが、ボクはその時、喉だけでなく耳も鼻も悪いような気がして、つい全部に丸を付けてしまったのです。

だから、彼女はボクのバランス感覚を見るために、安定しない丸イスに座らせ、足を組めと言ったのでしょう。おそらくこれは耳の診察です。

そうと分かれば足を組まないわけにはいかず、ボクはイスから転げ落ちないように用心しながらソロリと片足を上げ、必死になってバランスを保ちながらなんとか足を組み、しばらくその体勢を保つと、「やったぞ」と言わんばかりに女医さんを見ました。しかし彼女はボクの涙ぐましい努力を誉めるでもなく、また妙なことを言い出したのです。

「たそがれに顔を向けてください」

彼女はそう言うと顔を横に向け、遠くを見るような目をしました。その無表情な美しい横顔は、まさにたそがれを見つめているかのようでした。

ボクは荒れ狂う丸イスにしがみつきながら、途方に暮れてしまいました。

第三話:その指で髪をかきあげてくれ

ボクは少し考えるポーズをとってから、どうせ女医さんが見ている方向が「たそがれ」なのだろうと判断し、バランスを保ちながらそちらの方を向きました。

不思議なことにその頃にはグニャグニャに動く丸イスにも慣れてしまい、けっこう無理な体勢をしてもバランスが取れるようになっていました。その上達ぶりは自分でも驚くほどで、振り落とされる気などまったくしなくなり、むしろ次はどんな難問が出るのだろうと、ちょっと楽しみながら指示を待つようになっていました。

彼女はいつの間にかこちらを向いていて、ボクの手馴れた丸イス乗りをしばらく眺めていたのですが、おもむろに口を開くと次のように指示しました。

「その指で髪をかきあげてください」

それを聞いて、これはけっこう簡単な指示だと思いました。耳の検査だから耳を出せというのでしょうが、今のボクにはなんでもないことです。ボクはあえて丸イスから両手を離し、髪をかきあげようとしました。しかし考えてみれば、ボクの髪はかきあげるほど長くないし、耳だってすでに出ています。

それでも、せっかくに指示なので形だけでも指で髪をかきあげるポーズをとろうと思い、耳の上あたりを無理してかきあげながら、ふとある事に気付きました。彼女が言っていることは、ずっとどこかで聞いたことがあると思っていたのですが、その時やっとハッキリしたのです。

彼女が言っているのは、先週末ボクが上機嫌で歌っていたジュリーのダーリングの歌詞そのもので、語尾を「~ください」と丁寧にしていたので、うかつにも今まで気付かずにいたのです。

とすれば、次に彼女が言うことも予想がつきます。ダーリングの歌詞では、「ダーリング、ダーリング、ダーリング」と連呼した後、ちょっと声を落として「これから言うことを聞いてくれ」と続きます。だから、彼女はその通りに「ダーリング、ダーリング、ダーリング」と言った後、「これから言うことを聞いてください」と言うに違いありません。

すべてを読み切ったボクは、体をねじりながら丸イスを高速回転させ、喜びを体いっぱいで表現しました。すでにボクの丸イス乗りはかなりのレベルに達していて、高速回転やひなりなど自由自在にコントロール出来るようになっていたのです。

第四話:笑うなと言われても約束できません

すでにカラクリがばれてしまっているのを知ってか知らでか、彼女はささやくように「ダーリング、ダーリング、ダーリング」と小声で言った後、ボクの顔を真顔で見つめ、キッパリと「これから言うことを聞いてください」と言ったのでした。

一言一句たがわぬ予想通りの展開です。

ボクはもう勝利の雄たけびを上げずにはいられませんでたが、それをグッと我慢して高速で丸イスを回転させながら次の言葉を待ちました。

次は「笑わないと約束してください」と言います。これも間違いないでしょう。

ボクは、笑いをこらえてリアクションを考えました。

考えた末、リアクションとしては、まず丸イスで高速回転しながら、難易度の高い三回転半ひねりを入れ、回転の度に「ダーリング」と叫ぶことにしました。これなら流れにもあっているし、彼女もいっしょに「ダーリング」と叫びながらのってくれるかもしれません。

ワクワクして待っていると、ボクの様子を見て何か感じ取ったのか、彼女は少し怒ったような顔をしてしばらく間をとり、しかし予想通りに、「笑わないと約束してください」と言ってしまったのです。

ボクはここぞとばかりに、荒れ狂う牛を仕留めたカウボーイのように、丸イスの端を左手で支えながら右手を高々と上げ、高速回転の中に三回転半ひねりも入れ、回転ごとに「ダーリング、ダーリング、ダーリング~」と大声で叫びました。

ボクの興奮は最高潮に達し、自然に鼻の穴も大きく膨らみ、荒々しい鼻息をフン、フンと噴出しました。その鼻息の勢いにも乗って丸イスの回転はさらに速度を増し、回転の度に叫ぶ「ダーリング」の声もどんどん大きくなり、その声は医院の外まで届くほどになっていました。

最終話:完治しました

心ならずも診察室で大騒ぎをしてしまったので、待合室から何事かと思った患者さんたちがのぞきこんできました。

患者さんたちは、ボクがグニャグニャに高速回転する丸イスを見事に乗りこなしながら、荒い鼻息を噴き出し、さらによく通る大声でダーリングと連呼しているのを見て、みんな口々に感嘆の声をあげました。

ある人は、ボクが丸イスに乗って高速回転しているのを見て、「まあ、なんてすばらしいバランス感覚なのかしら。あの丸イスを上手に乗りこなしている人なんて初めて見たわ。さぞかし丈夫で健康な三半規管なのね」と言い、大きくうなずきました。

またある人は、ボクがたくましい鼻息を噴出しているのを見て、「ああ、なんて男らしくてセクシーな鼻息なのかしら。あんな鼻息が出せるなんて、どんなに丈夫で健康な鼻なのかしら」と言い、ほおを赤らめました。

そしてまたある人は、ボクの診察室内に響きわたる大声を聞き、「なんと言っても見事なのは、あの声ね。あんなに心に響く大きな声が出せる人なんてそうはいないわ。どんなに丈夫で健康な喉なのかしら」と言うと、胸の前で手を組み、恋する乙女のように宙を見つめました。

そして彼女たちは口々にこう言いました。

「あんなに丈夫で健康な耳と鼻と喉を持っている人なんて見たことがないわ。パーフェクトな耳鼻咽喉の持ち主ね」

ボクは荒々しく高速回転しながらも、この患者さんたちの声をちゃんと聞いていました。

丸イスを乗りこなしてからというもの、ボクの耳は研ぎ澄まされてきていて、どんなに小さなささやき声も聞き分けることが出来るようになっていました。

だから、大歓声の中でかき消されていた女医さんの「完治しました」とそっとつぶやく声もハッキリと聞こえていたのです。

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