湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


70.御会式

第一話:御会式

毎年10月16日から18日までの三日間は、雑司が谷の鬼子母神で「御会式」が開催されていて、ボクは毎年この祭りに行っています。

どうして毎年この祭りに行くかというと、祭りの魅力もさることながら、御会式の日程が曜日に関係なく10月16日から18日までに毎年固定されていて、最も盛り上がる最終日の10月18日がボクの誕生日にあたるわけです。今年の18日は日曜日だったのですが、例年通りの盛り上がりを見せていました。

祭りというものは、毎年行っていても常に新しい発見があるもので、今年も二つの発見がありました。一つは、キュウリの浅漬けが、ある時間帯を境に200円から100円に値下げされるということで、おかげで思う存分キュウリを食べることができました。そしてもう一つは、やけに厚化粧の人が多いということでした。

もちろん、祭りに厚化粧は付き物なのですが、付き物だからこそ厚化粧の人が多いと祭りが盛り上がるとも言えるわけです。おそらく厚化粧の人は祭りに参加しているという意識が強く、だからその数が増えれば盛り上がりも増し、やがて一体感が生まれ、大都会の真ん中で、あれほどの大騒ぎになるのでしょう。

ボクはそんなことを考えながら、まだ終わりそうにない祭りを後にし、雑司が谷駅から和光市行きの電車に乗り込みました。日曜日なので車内はすいていて、祭り帰りを感じさせるような人もいませんでした。

ボクは車両の一番端の席に腰掛け、まだ耳の奥に残る祭りの喧騒の余韻に浸りながら、「ああ、やっぱり御会式はいいなぁ」と思わずつぶやきました。と、その時、まるでボクの独り言に重ね合わせるかのように、「ああ、やっぱり御会式はいいわ」という声が隣から聞こえてきたのです。

隣には誰もいないと思っていたので、驚いて横を見てみると、いつの間にかそこには大柄な女性が座っていて、ボクと目が合うと、カラクリ人形のようなぎこちない動きで口を開け、ニッと笑ったのでした。

第二話:青黒く浮き上がるもの

ボクはすぐに彼女から目をそらして、正面に向き直りました。

正確には、「あ、勘違いだ」みたいな顔を一瞬作り、それに「失礼しました」みたいな表情を加え、さらに自重気味の苦笑いを被せ、それからすごく反省しているような横顔を残して正面に向き直ったのです。だいたいこんなケースでは、これで後腐れなく終了するはずです。大人同士とはそんなものだし、この混沌とした現代社会だからこそそうでなくてはなりません。いや、そうあってほしいと願うばかりです。いわば友愛精神です。

しかし、現実とはなかなか厳しいもので、なかなか彼女の視線はボクから離れそうになく、ボクは横顔でずっと彼女の熱視線を浴びていました。

その緊張感の中で、考えました。

いったい彼女は何者なのか。どうしてこのガラ空きの電車の中でわざわざボクの横に座っているのか。彼女の派手な格好からすると、おそらく祭り帰りで、電車が発車する直前に乗り込んできたのでしょう。その時ボクは祭りの余韻に浸っていたので、彼女が横に来たことに気付かなかったわけです。

ボクはちょっとうつむいて、横目で彼女を観察しました。

彼女とボクの間にはひとつ席が空いていて、彼女はその間の席に左手を付いて体をボクの方にぐっと傾けていたので、顔だけが極端に近いという、かなり緊迫感あふれる状態でした。

ボクは座席に置かれた彼女の、巨大で肉厚な手を力なく見つめていました。その浅黒くたくましい手の甲には、青黒く丈夫そうな血管が浮き出ていて、どくどくと脈打っているのが見えました。

第三話:戻ってきた平穏

ボクたち二人は緊迫感あふれる体勢のまましばらくじっとしていました。

電車はもう池袋駅の手前まできていて、だんだん減速しているのが分かりました。池袋はターミナル駅なので、日曜日といえども乗客は多いでしょうし、今のボクたち二人の体勢を見ると、乗ってきた人たちはみんな不穏に思うに違いありません。彼女は相変わらず左手を座席につき、ボクのほうに体を傾けたままじっとしていました。

ボクはこの情況からどう抜け出そうかと思い悩んでいたのですが、池袋駅に着くと、どうしたことか彼女はパッと身を翻らせ、まっすぐに座りなおすと、何事もなかったかのようにバッグから雑誌を取り出して読み始めました。

それはまるで訓練を受けたかのような素早い動きでした。ボクはどんな女性なのだろうと思い、車内を見渡すふりをして彼女をよく観察してみました。

彼女はいままでの迫力がうそのように、長い脚を組み、物憂げに雑誌のページをめくっていました。最初はあまりの勢いに、女装した男性ではないかと疑っていたのですが、まったくの見当違いで、長いまつ毛を伏せて雑誌に目を落とす横顔は、ファッション雑誌から抜け出してきたかのように美しく、あの肉厚でたくましいと感じていた手も、しなやかで上品な動きで、長い髪に触れたり雑誌のページをめくったりしていました。

池袋で別人と入れ替わったのではないかと思うほどの変わり様でしたが、車内に平穏が戻ってきたことに間違いはありません。

ボクは少し安心して、深く座席に座りなおし、腕を組んで目を閉じ、戻ってきた平穏をじっくりとかみ締めました。そして、あんな美しい女性なら今までの体勢も悪いはないな、とか思いながら少しニヤケもしました。電車はだんだんスピードを上げていき、ボクはその揺れに身をまかせて、いつしかうつらうつらとしていました。

もちろん、この時点では、これからあのような事件が起ころうとは、予想すらしていなかったのです。

第四話:意表をつく仕事

ボクは腕を組み目を閉じ、うつらうつらとしながら祭りの賑わいを思い出していました。

その時、ふと境内で買ったおみくじを思い出しました。祭りの時には少しだけ読んで、あとはそのままにして忙しく出店を廻っていました。

ボクは胸ポケットからおみくじを取り出し、改めてじっくりと読み直しました。おみくじには「金運」とか「健康運」とか、項目別に運勢が書いてあったのですが、一通り読んで気になったのが「仕事運」でした。そのおみくじの仕事運のところには「意表をつく仕事で成功する」と書いてあったのです。

はて、意表をつく仕事とはなんなのでしょうか。

ボクはおみくじから目を離し、顔を上げ、反対側の窓ガラスにぼんやりと映る自分を眺めながら、思わず「意表をつく仕事とはなんだろう」とつぶやきました。

と、その時です。ものすごい勢いで隣の彼女が接近してきたと思ったら、左手でボクのふとももをむんずと掴み、ぐっと顔を近づけてきました。彼女は、驚いて身動きできずにいるボクの耳元に口を寄せると、「これが意表をつく仕事よ」とささやいたのです。

彼女の巨大な手はボクのふとももに食い込み、手の甲に浮き出た青黒い血管は、どくどくと脈打っていました。その忌まわしくも力強い血流が、そのままボクの体の中に入り込み、一瞬にして体中の血液が入れ替わったような気がしました。

ボクはだんだん気が遠くなっていくのを感じました。

薄れゆく記憶の中、彼女が耳元で「500円…。」とささやいた気がしました。

最終話:新たな約束

いつもの駅に着き、改札を抜け、階段を上がり、いつものように大通りに出ました。

外には秋らしい爽やかな空気が広がっていて、爽快な気分になりました。そんな秋の空気に癒されながらも、爽快なのは空気のせいだけではなく、他に要因があることは気付いていました。その時ボクの体は、まるで生まれたての赤ん坊のように、身も心もリフレッシュされていたのです。

ボクは横断歩道で立ち止まると、ふともものあたりを触り、つい数分前に体験した、あの不思議な瞬間を振り返ってみました。

そう思って振り返ろうとすると、数分前のあの一瞬の出来事がずいぶん懐かしいことのように思えました。

目を閉じ心を落ち着かせてから整理して思い出してみると、そう、電車の中でいきなりボクのふとももを掴んだ女性は、恍惚としているボクの耳元で「500円…。」とささやいたのです。ところが、ちょうどその時、電車が駅に着きドアが開いたので、彼女は「あら、いけない」と言いながらバッグからすばやく名刺を取り出してボクに渡すと、「今日はサービスよ」と言い残して、鮮やかな身のこなしで颯爽と降りていったのでした。

残されたボクは、呆然とその後ろ姿を見送っていたのですが、電車が動き出してからやっと我に帰り、もらった名刺を見てみました。

名刺には「ワンコイン瞬間マッサージ、一回500円」と書いてありました。

信号が青になり、ボクは横断歩道を歩きながら胸ポケットから名刺をとり出し、まじまじと見つめました。おそらくあれは気功整体かなにかを応用したマッサージなのでしょう。思えば、この仕事は場所を選ばないし、値段も安いし、なんたって一瞬で済むのだから、こんな効率のいいリラクゼーションはありません。この意表をつく仕事は成功するに違いありません。

ということは、意表をつく仕事で成功するのだから、彼女もボクと同じ運勢だということです。あのおみくじは誕生日別だったので、ボクと彼女は同じ誕生日であり、御会式の最終日と同じだというです。ということは、また来年彼女に会うということです。

ボクは、ひとつ約束をかわしたような、そんな高揚した気持ちで、夜の街を気の済むまでいつまでもいつまでも歩き続けました。

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