湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


65.運命

第一話:雨は夜更け過ぎに

土曜日は行きつけの居酒屋が60周年を迎えるということで、昼の2時からビールを飲んでいて、そのままズルズルと12時間飲み続けてしまいました。

12時間飲み続けたといっても、その夜は妙に冷静で、何件か店を変え12時を回った頃からは、むしろ飲むことよりも飲み続けること自体が目的になってきて、せめて12時間は飲み続けようと思いながら居酒屋に居座っていました。

やっと切りのいい2時になったところで居酒屋を出ると、いつの間にか雨が降り出していて、ボクが困ったように空をチラッと見上げると、待ってましたとばかりに目の前にタクシーが止まり、パッとドアが開いたので、ボクは吸い込まれるようにそのタクシーに乗り込みました。

タクシーの運転手さんはやけに元気のいい初老の男性で、ボクが乗るとすぐに世間話を始めたのですが、その夜のボクはいつものノリのいい酔っ払いではなかったので、せっかくの運転者さんの威勢のいい話にも生返事を繰り返すだけで、タクシーの窓ガラスに当たる雨粒をぼんやりと眺めていました。

それでも運転手さんは話をやめず、相槌もないのにご機嫌で話し続けていたのですが、突然「あっ」と小さくつぶやくと黙り込んでしまいました。ボクはずっと外を眺めていたので彼の様子は分からなかったのですが、彼が驚いた理由は分かりました。彼が「あっ」と短くつぶやいたその瞬間、まさにその瞬間、一瞬にして雨が雪に変わったのでした。

おそらく彼ほどの人生のベテランなら、雨が雪に変わる瞬間くらい見る機会はたくさんあったでしょうが、その変身ときたらあまりにも劇的で、これほどまでに見事なものは彼とて見たことはなかったに違いありません。それほど一瞬にして雨は雪へと姿を変えたのです。

ボクは頭の中で「雨は夜更け過ぎに~、雪へと変わるだろう~、おぅおぅおぉ」というフレーズを繰り返しながら、真っ白になった窓の外を眺めていました。

第二話:初老の運転手の主張

しばらく初老の運転手は黙っていたのですが、急に高い声で「どうせ」と話し出しました。しかし、勢いよく話し始めたせいか言葉に詰まり次が続かず、ひとつ咳払いしてから少し声を低くして言い直しました。

「どうせ、こんな雪なんて積もりゃしませんよ」

ボクはべつに雪が積もろうが、溶けようが、止もうが、吹雪こうが、どうでもよかったので、返事をすることもなく窓の外を眺めていました。

しかし彼は構わず「すぐに止むんですよ。この雪は」と続けました。

その口調からは、雪が積もることを願っているかのようにも感じられました。しかし、考えてみれば、彼の仕事はタクシーの運転手なのだから、雪が積もれば困ったことばかりが増えるはずです。まず車の運転が危険になるし、人も出歩かなくなるのでお客さんも少なくなります。彼としては、なるべく雪は積もらないほうがいいはずなのに、どうしてこんなことを言っているのでしょうか。そんなことをぼんやり考えていると、彼はさらに強い口調で続けました。

「絶対に止みますよ。明日の朝になって雪が積もっていたら、わたしゃ何でもしますよ」

そう言うと少し間を置き、思いつめたように付け加えました。

「それが運命だから」

そして彼はまた黙り込んでしまいました。

ボクは相変わらず窓の外を眺めていました。しかし、頭の中では初老の運転手が口にした「運命」という言葉がぐるぐると駆け巡っていました。いったいこの「運命」とは誰の運命なのでしょうか。

雪の運命なのか、それとも初老の運転手の…。

第三話:夜中に電話かける癖

タクシーのワイパーがせわしなく左右に動いて、フロントガラスにぶつかってくる雪を払い除けていました。雪の勢いはどんどん強まってきているようで、見上げると降りそそぐ雪が暗い空を覆い尽くしてしまうほどでした。

運転手は何かを覚悟したかのように、押し黙ったままハンドルの上の部分を両手で握り、真っ直ぐ前方を凝視していました。

ボクは腕を組みながら座席に深く座り直し、改めて四方の窓から外を見てみました。

外はまるで雪国のように真っ白で、それでいて路面には雪が積もっていないので、タクシーもすれ違う対向車も、さほどスピードを落とすことなく、普段の深夜のようにスムーズに走っていました。空だけが雪国で、他はすべて日常でした。

考えてみれば、これはかなり珍しい光景で、そうそう経験できることではないでしょう。

ボクはこの場に居合わせた偶然に感謝し、そしてこの感動を誰かに伝えなくてならない、と思いました。言うまでもなく、感動は分かち合えば合うほどに喜びが倍増していくもので、一人よりも二人、二人よりも三人と数が多くなればなるほど、喜びは倍々に増えていくと言っても過言ではないでしょう。

ボクは携帯電話を取り出し、迷わずダイヤルしました。

携帯電話からはすぐに呼び出し音が聞こえはじめ、ボクはそれを聞きながら更に深く座席に座り直しました。

第四話:雪が好きな人だから

相手が出ないまま呼び出し音は十数回鳴り続け、留守電になることもありませんでした。

深夜ということもあり、これくらい鳴らして相手が出なければ普通は諦めるところですが、ボクは電話を切ることもなく、のんびりと呼び出し音を聞いていました。

というのも、その相手というのがとても雪が好きな人物だったからなのです。ですからこんな夜中でも、「雪が降っているよ」と言うだけでご機嫌になり、「どんな雪が降ってるの、積もりそうなの、最高の気分?」と質問してくるに違いありません。それに雪のことに関してなら、ちょっとやそっとではガッカリしません。ボクがちょっと意地悪して「大したことないんだよ」と言っても、「いやいや、そんなことはないはずだ。ありがたい、ありがたい」と、これくらいのことは言うはずです。

ボクはどんな大げさな話をしてやろうかと、ワクワクしながら呼び出し音を聞いていました。すると数十回くらい呼び出し音がしてから、ガチャっという受話器を取る音がしました。

どうやらやっと相手が出たようで、ボクはこの感動的な雪景色を劇的に話してやろうと、ちょっと視線を落として心の準備をしました。とその瞬間、今まで押し黙っていた運転手が、大きな声で「あっ」と叫びました。何事かと思ってボクもちょっと顔を上げ、うかつにも運転手と同じくらい大きな声で「あっ」と叫んでしまいました。なんと今までフロントガラスに勢いよくぶつかっていた雪が、ボクがちょっとうつむいている間に、一瞬にして雨に変わってしまっていたのです。

もちろん周りの雪もすべて雨に変わっていて、あたりはごく当たり前の雨の街並みに一変していました。

ボクは携帯電話を耳に当てたまま、呆然とフロントガラスに当たる大粒の雨を見ていました。左耳の奥では「もしもし、もしもし」という、やけに冷静な声が響いていました。

最終話:運命って信じる?

ボクは携帯電話を耳に当てたまま、途方に暮れていました。

雪が降っているからこそ、こんな夜中に電話をかけても相手は許してくれるでしょうが、今の状態ならただの酔っ払いのいたずら電話です。もし仮にまだ雪が降っていることにしても、臨場感がなくて説得力に欠けるでしょうし、それはボクの本意ではありません。ボクはあくまでも、この電話の相手と雪を感じたかっただけです。それほどボクたちにとって、かけがえのない雪景色に思えたのです。

そんなことを考えていると、しばらく黙っていた電話の相手が、まるで耳元でささやくように、「いい雪だったね」と話しかけてきました。ボクはそれを聞き、思わず隣を見ました。その声が電話の中からと同時に、すぐ隣から聞こえたような気がしたからです。

やはり隣には電話の相手が座っていました。なんとボクたちはいっしょのタクシーに乗っていたのです。

ボクは愕然としたまま、自分が置かれている状況について考えました。そして今日一日の行動を振り返ってみました。しかし、どう考えてもその人との接点はなく、ここにいっしょにいるはずがありませんでした。なのに、現実には隣にその人が座っているのです。ボクは結論を出せないまま、呆然とその人を見つめました。

そんな戸惑いを知ってか知らずか、その人は携帯電話を耳に当てたままじっとボクを見つめていたので、ボクたちは期せずして見つめあう格好になったのです。

しばらくそんな状態が続いていたのですが、ふいにその人は、「運命って信じる?」と言い、少し笑いました。

そう言うとその人は携帯電話を下ろし、丁寧にそれを二つ折りにしながら運転手にここで降りると告げ、ボクのほうをちょっと振り向いてから降りて行きました。

タクシーは何事もなかったかのように雨の街を走り出し、初老の運転手は雪が降る前のようにしきりに世間話をはじめました。

ボクはそれを聞き流しながら、雪が降る前のように窓のガラスに当たる雨の粒を眺めていました。

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