湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


63.春

第一話:街角で偶然に出会った~

昨日もなにやら温かかったので、めっきり葉が多くなった桜の木を見上げながらのんびり散歩をしていたのですが、ふと後から呼び止められたような気がして振り向いてみると、そこには久しぶりに会う知人が立っていました。

ばっとりと昔の知人に出会うのは嬉しいには嬉しいのですが、いろいろと面倒なこともあるので、普段街を歩いている時は注意深く周りを見渡して出来るだけ知り合いに会わないように気を配っているのですが、さすがに近所だったので気を抜いていました。

それに、近所の人だったらあいさつ程度で別れられるのですが、昔の知り合いに偶然出会ったとなると、すぐに別れるわけにもいかないし、相手だって声を掛けた以上、昔話のひとつもしないで「それじゃあ、またね」はないでしょう。

ボクはごく自然に、「ちょっとその辺で一杯どう?」と誘い、相手も「そうね」と言って、すぐに店探しが始まりました。

店を探すといっても、まだ夕方だしボクらはダラダラと無言のまま歩きました。

こういう場合、立ち飲み屋で安い串揚げでも食べながら30分くらいは無言のままで飲み、ちょっと酔ってきたところで、「そういえば」とかなんとかどうでもいいような話題を切り出し、また話題に詰まって無言で飲む、というのがいつものパターンなのですが、その日はどこで飲めばいいのかちょっと迷っていました。というのも、相手が相手だし、少しは洒落た店を探さなくてはいけないのではないか、と考えていたからです。

それは他でもありません。その知人というのが、道行く人も振り返るような絶世の美女だったからなのです。

第二話:人垣が割れるほどの美女

ボクは絶世の美女と無言のまま歩き続けました。

歩きながらどの店にしようかと考えていたのですが、この辺をどんなに探しても気の利いた店なんてないことは最初から分かっていたし、こんな時間帯では定食屋くらいしか開いていないだろうことも予想がついていました。しかし、そんなことを言っていても仕方がないので、とりあえずボクは商店街に入りました。ひょっとしたら新しい店が出来ていて、それがすごくご機嫌な店かもしれないからです。

日曜日だったので、商店街はすごい込みようで、買い物客でごった返していました。この商店街には極安の洋服店があって、特にその店の前は歩けないくらい込んでいました。

しかし、どんなに込んでいても、ボクたちが歩くと人々は彼女を見て驚き、人垣が割れるようにして道が出来、その中をボクたちが通り過ぎたあとも、みんな唖然として彼女を見ていました。それは男性に限ったことではなく、若い女性も、年配の婦人も、子供だって大人だって、誰もかれも彼女に見とれていました。まさに老若男女がこぞって彼女に羨望のまなざしを注いでいたのです。

彼女はそんなことにはもう慣れっこのようで、まったく動揺することもなく、まっすく前を向いて歩いていました。

ボクはそんな堂々とした彼女の横で、「やっぱりそうなのか」とひとり納得しながら歩いていました。

それは他でもありません。その絶世の美女は、その日は日本髪を結っていて、その姿ときたら誰もが振り返るしかないくらい妖艶だったのです。

第三話:髪は金色、目は青く~

日本髪を結っているくらいですから、もちろん彼女は和服を着ていて、その艶やかな着物姿は春の日差しの中で輝いていました。

ボクたちは商店街をゆっくりと進んでいったのですが、そのたびに人垣が割れ、歩きやすくはなったのですが、なんとも居心地が悪いので、脇道にそれ住宅街に入っていきました。住宅街といってもこの辺りには、ぽつりぽつりと飲み屋があり、しかしそのほとんどが寿司屋でした。

こんなに寿司屋があっても仕方ないと思いながらも、寿司屋以外に気のきいた店もなさそうなので、数件ある寿司屋の中でもちょっと小奇麗な店に入ることにしました。

その店の入り口は引き戸になっていて、開けてみると、幸いなことにお客さんはまだ誰もいなかったのですが、店員の反応もなかったので、ボクたちは「すいません」と言いながら恐る恐る入っていき、とりあえずカウンターに座りました。

カウンターの中には店主らしき中年の男性がひとりいたのですが、彼はボクたちが入っていってもただ呆然と立ちすくむばかりで、ボクたちが目の前に座ってはじめて、我にかえったような顔をし、彼女に向かってどぎまぎと「ハ、ハロー」とあいさつしたのでした。

その店主の反応を見て、ボクは「まあ、それも無理のないことだな」と内心納得しました。

それは他でもありません。その絶世の美女は日本髪を結ってはいたのですが、髪の色は金色で、瞳は青かったのです。これでは店主でなくても「ハロー」と言いたくなるに違いありません。

第四話:ついに異種格闘技戦か

ボクは固まっている店主を無視して、彼女に「ビールでいい?」と聞きました。彼女は珍しそうに店内を見渡していたのですが、ボクの言葉にすぐに反応し、「そうね」と短く答えると、今度はカウンターの上に乗っていた醤油入れをまじまじと観察し始めました。

これで店主も彼女が日本語をしゃべれるのが分かっただろうし、何も言わなくても威勢よく「あいよ、ビール一丁!」とくると思っていたのですが、店主は相変わらず凍りついたままでした。

いつまで経ってもビールが出てこないので、仕方なく「ビールくださいね」とちょっと強く言うと、店主は驚いたように、「オー、イエース」と大袈裟に答え、慌ててクーラーボックスからビールを一本取り出し、カウンターの上に置きました。

まだ店主は分かっていないのかと思いながら、ボクはビールビンを持って彼女のグラスに注ぎ、素早く自分のグラスにも注ぐと、グラスをちょっと高めに持ち上げながら「おつかれ」と言い、一気にビールを飲みほしました。

この飲み方は、どう見ても純日本風です。これを見れば店主も安心するに違いありません。

しかし予想に反して、店主は相変わらず強張った表情のままで、今度は「オー、ノー」と言いながら両手を開いて肩をすぼめるポーズを取ったのです。

ボクはこのポーズを見て、一昔前のプロレスの一場面を思い出しました。昔のプロレスラーはみんなオーバーアクションで、特に大柄な外国人選手に対しては、日本人レスラーはみんなこのポーズをやっていました。

ボクはこれを見て、「これは無理もないことだな」と内心納得しました。

それは他でもありません。彼女はボクよりも30センチは背が高く、おまけに姿勢がものすごくいいので、イスに座っていても見上げるばかりなのに、寿司屋の店主の方はかなり小柄で、おまけに猫背ぎみだったので、二人が向き合っているのを見ていると、まるで異種格闘技戦のようだったのです。

最終話:春告げ人たち

結局、寿司屋では寿司を食べることも出来ず、二人でビールを一本飲んだだけで店を出ました。店主は「グ、グッバーイ」と言って見送ってくれました。

引き戸を開けて外に出ると店の周りには大勢の人がいて、彼らは中の様子をうかがっていたようで、戸を開けた途端みんなが一斉に後ずさりしたので、なかには転ぶ人もいました。どうやら商店街から付いて来たギャラリーのようで、ボクたちが店を出て歩きだすとまた人垣は割れ、転んでいた人もそのまま必死になって後ずさりしていました。

こんな異様な中でも彼女はまったく意に介する素振りもなく、歩きながら空を見上げ、「もうすっかり春ね」と言い、のんびりと春の日差しと風を楽しんでいるようでした。

それでも、ギャラリーはボクたちを囲み離れようとしませんでした。よっぽどボクたちが異様に映っていたに違いありません。

確かに彼女は2メートルを超す長身で、ブロンズを日本髪に結い、艶やかな着物姿ではありますが、バランスの取れた絶世の美女ですから、羨望の眼差しを向けられることはあっても、こんなに見物客を集めてしまうとは考えられません。おそらくこんなにギャラリーが集まってしまったのは、ボクといっしょにいるからでしょう。

それは他でもありません。ボクは今日の午後、一番風呂を浴びたあと、浴衣を着て下駄をはき力士用のカツラも付け、「湯上がりの相撲取り」となって散歩をしていたのです。これは風流人のたしなみと言えばいいのでしょうか。そこに彼女とばったり出会ってこうして並んで歩いているわけです。

2メートルを超す日本髪で着物姿の金髪美女と、イナセで粋な湯上がりの相撲取りが並んで歩いているのですから、一人ずつならともかく、二人揃えば何かのイベントだと思われても仕方がありません。

そんなことを考えながら歩いていると、どこからともなく「やっぱり春だからねえ」とか「春になるとこういうのが出てくるのよね」とかいうヒソヒソ話が聞こえてきました。

ボクは彼女の方を向いてみました。彼女にもその声は聞こえていたようで、どちらからともなくボクたちは互いに微笑みあい、彼女は小さくウインクをしました。そう、期せずしてボクたちは、季節を忘れた都会人に春が来たことを自覚させたのです。

風流人とは、春が来たならばごく自然に「春告げ人」となるものなのです。

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