湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


61.霧

第一話:夜霧にむせぶ宵のうち

昨日は昼過ぎからウトウトしていたら、気づいたら夜になってしまっていて、しょうがないのでテレビでも見ようかと思ったのですが、先週で華麗なる一族も終わってしまったことだし、他にこれといって見るテレビ番組もないので、久しぶりに近所のプールに行ってみることにしました。

夜も8時を過ぎていたし、まだ水泳のシーズンには早いし、家族団欒の日曜日の夜に泳ぎにいく酔狂な人も少ないだろうと思い行ってみたのですが、意外にも人は多くて、それがちょうどいいくらいの混雑ぶりだったので、ボクはそれほど力むこともなくダラダラと20分ほど泳ぐことができました。

20分といえども運動すると気分は爽快になるもので、ボクは足取りも軽く体育館を出ると、ちょっと遠回りでもしてやろうと思い、家とは反対側の大きな木が繁っている通りに向かって歩きました。

公園の中をしばらく歩きその通りに入ってみると、そこは霧が深くて数メートル先が見えないくらいでした。驚いて周りを見渡してみると、あたりも当然ながら深い霧がかかっていて、今までは公園の広場を歩いていたので気付かなかったようです。

きっと午前中雨が降って、それから急に気温が上がったので、なんらかの気象条件が重なって、これだけ濃い霧が出たのでしょう。

ボクはそれほど深く考えずに霧の中をばく進しました。

第二話:霧の中をひたすら爆走

いくら濃い霧がかかっているといっても、都心にある公園の中なので、いきなりクマが出たりトラが出たりという心配はありません。周りには大きな道路も走っているし、どんなに間が抜けていても道に迷って朝まで彷徨うこともないでしょう。

つまりこの通りは、一見山の中のように見えるのですが、本当は極めて「安心、安全」な、まるで宮崎地鶏のような通りなのです。

ボクは霧の中をぼんやりと歩きました。

濃い霧が視界を遮るので余計なものを見なくて済むぶん、気持ちが落ち着きました。それに、いつもなら過ぎたことをクヨクヨと悩むところなのですが、その日は少し泳いできたせいもあり、頭がスッキリとしていてすこぶるプラス思考で、小さなことなど考えられないくらいでした。

ボクは、愉快だったことを思い出したり、大いなる未来に思いを馳せたりして歩いていたのですが、そのうちにのんびり歩いているのがまどろっこしくなってきて、少し走り始めました。走ってみると意外に足が軽くて、ボクは調子に乗って飛び跳ねるようにして走りました。

両脇に大きな木々が繁るその通りは、奥に進むほどに霧が濃くなっていて、もうすでに目の前もよく見えないような状態でしたが、ボクはそんなことは意に介さず、ひたすら爆走したのでした。

第三話:心にあいた穴

その夜はどんなに走っても、息が切れるでもなく、足が痛くなるでもなく、快調そのものでした。

ボクは、こんなこともあるものなのかと戸惑いながらも、止まることなく走り続けました。

しばらく走っていると、目の前に人影のようなものがあることに気づきました。なにしろ霧が濃くて数メートル先もよく見えないくらいなので、直前になるまでそれが人影だということは分からず、ハッキリ見えたのも、もうその影と並ぶくらいに近づいてからでした。

その影は立ち止まったまま動かず、ずっとうつむいていたので、きっと携帯電話でも見ているのだろうと思い、追い越す時になにげなく手元を見てみたのですが、その影は手に何も持っていなくて、ただじっとうつむいているだけでした。

こんな夜中に変わった人もいるものだと思いながらも、深くは考えずにその影を追い越したのですが、その時、不思議な感覚に襲われました。

その影に並び、そして追い越した瞬間、何か心に穴があいたような気がしたのです。

ボクはそのまま、なおも走り続けたのですが、心の穴は拡がっていくばかりで、ついにポッカリとした大穴になり、前から受ける風がその穴をヒューヒューと音をたてて通り過ぎているようにさえ感じました。

第四話:いとしの意地悪ばあさん

通り過ぎてみて、さっき追い越した人影が気になってきました。

最初はあの人影は男性かと思っていたのですが、思い返してみると、おばあさんのような格好をしていました。それも、ボクにとってすごく思い出深いキャラクターのような気がしました。

いったいあれは誰だったのだろう、と思いながら爆走していると、ふとさっきの人影がうつむきながらいたずらっぽく笑っている顔が浮かんできました。その瞬間、やっとそれが誰なのかが分かりました。

あれは「意地悪ばあさん」だったのです。昨年亡くなった青島幸男さんが扮して大人気になった「意地悪ばあさん」そのものでした。

だからボクはあの人影を追い越した時に心に穴があいたような気がしたのでしょう。あの喪失感は、昨年の暮、青島さんが亡くなった時に感じたものと同じでした。

とすると、青島さんは亡くなっているのだから、あの完璧な「意地悪ばあさん」は誰なのでしょうか。

そう思うと居ても立ってもいられず、ボクはとにかく引き返そうと思い止まろうとしたのですが、足がまったく言うことを聞かず、止まろうとすればするほど逆にスピードが増していくように感じました。それでもなんとか止まろうともがいていると、ふと変な動きをしている腕時計の針が目が入りました。

見ると、腕時計の針は長針も短針も壊れたように勢いよく回転していて、どんどん日付が変わっていました。今の日付は昨年の年末になっていて、それもすぐに年が明けそうな勢いでバンバン変わっていました。

それを見て少し不安になりました。どうやらボクは過去に遡って爆走しているようなのですが、それはまあいいとして、日付からして、さっき追い越したあの「意地悪ばあさん」は本物に違いありません。ということは、このまま日付が変わっていけば、ボクはもう一人大事な人を追い越すことになってしまいます。

しかし、それだけは阻止しなくてはなりません。ボクは必死に抵抗して止まろうとしたのですが、足はトップギアに入ったかのように唸りを上げてスピードを増していき、腕時計の針は肉眼では確認できないくらいの速さで回転していったのでした。

最終話:もう少し時が緩やかであったなら

ボクはどうしても次に現れるであろう人影を追い越すわけにはいかないと思い、必死になって止まろうとしたのですが、その望みも届かず、目の前に人影が現れたと思った時には、あっと言う間もなく追い越してしまいました。

せめてその姿だけでも目に焼き付けようと、追い越す瞬間に目を凝らして見たのですが、あまりのスピードの速さに目が付いていけず、残像だけがかすかに残る程度でした。

しかし、そのかすかに見えた姿は、まさに一時代を築いた「無責任男」そのものであり、その表情は、あくまでもスイスイスーダララッタでした。

ボクは目を閉じ、無責任男の冥福を祈ってから静かに目を開け、「終わってしまったな」と自嘲気味につぶやきました。

腕時計を見ると、日付は現在に近づきつつありました。おそらく時間が元に戻ればボクの足も言うことを聞いてくれるはずです。

ボクは腕時計の日付が現在を指したのを確認してから、静かに立ち止まろうとしました。しかし、どうしたことか、日付が「今」を通り越しても、ボクは止まることができず、気のせいか、さらにスピードが増しているようにも感じました。

道はいつの間にか下り坂になっていて、おまけに霧もさらに濃くなり、数センチ先も見えないほどでした。まさに一寸先は闇状態でした。

ボクは自分の意思とは反し、坂道を転がり落ちるようにして、展望の見えない未来へと向かい、いつまでもいつまでも走り続けたのでした。

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