湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


60.天国

第一話:ただいま天国タイムです

土曜日に銀座を歩いていると3丁目の一角だけ、他と違う雰囲気になっている場所があります。そこには場外馬券売場があって、週末ともなると灰色やこげ茶の服を着たおじさんたちがどっと集まり、まるでここだけ後楽園ホールのようです。

客層にあわせて周りの店も出来るもので、ここいらには立ち食いそば屋や、競馬中継を流している喫茶店やら、銀座とは思えないような異空間が広がっています。

場外馬券売場はいつも込んでいて、G1レースがある時などは満員でなかなか馬券を買えず、おじさんたちの行列が外まで延びていたりすることもあります。

先週の土曜日、いつものようにボクは銀座を歩いていたのですが、ふと気づくと周りを歩いているのが例のおじさんたちばかりになっていたので、もう3丁目なのかと思い周りを見渡してみたのですが、そこはまだ例の場所にははるか遠い場所でした。

不思議に思い、おじさんたちの行動を観察してみると、おじさんたちは吸い込まれるようにある一軒の店に入っていっていました。

近づいてみると、その店はなんの変哲もない居酒屋のようで、ドアのところに手書きの張り紙がしてあり、ボクはそれ見て考え込んでしまいました。

その貼り紙には「ただいま天国タイムです」と書いてあったのです。

第二話:天国のドアを開ける

ボクはその貼り紙を見て、寒々とした気持ちになりました。

張り紙の意味はなんとなく推測できたのですが、「天国」という言い回しがいただけませんでした。あまりにもセンスがなさすぎます。

おそらくこの「天国タイム」というのは、「今ランチタイムなので、夜だったら高価なメニューも今ならお得料金で食べられるぞ、昼間から酒も飲めるぞ、こりゃあ天国だ」という意味なのでしょう。

しかしそれにしても、いまどき「天国」という言葉を使うとは、ひねりがないと言うかなんと言うか、聞いているほうが恥ずかしくなります。

折りしも土曜日の銀座は歩行者天国で、その乾いたネーミングの影響か、みんな無愛想にただひたすら車道を歩いているだけです。

ボクは「こりゃあ、期待できないぞ」と独り言を言いながら、居酒屋のドアを開けました。

心の中で「それでも入るんかい!」と自分にツッコミを入れていたのは言うまでもありません。

第三話:天国の風景

ドアを開けると、やはり店内は銀座らしくちょっと高級な雰囲気はあったのですが、棚には酒のボトルが並び、カウンター席とボックス席が適当にある、いたって普通の居酒屋でした。

店内はほぼ満員で、みんなおじさんたちばかりでした。

入口にあったメニューを見てみると、やはり予想通り、夜の高級メニューがランチタイムにはお得料金で食べられると書いてあり、おまけにセットだとお好みでビールや熱燗も付いてくると書いてありました。

と、ランチタイムのサービスは予想通りだったのですが、そんなのんびりしたことを言っている場合ではないことは、ボク自身よく分かっていました。店内には異様な空気が流れていたのです。

それは、満員のおじさんたちがみんな全裸だったからです。それはとても正視できるような光景ではなく、ボクは出来るだけメニューから目をそらさず、おじさんたちを見ないようにしていました。

しかし、どうしても怖いものみたさというかなんというか、横目で恐る恐るおじさんたちを見てみると、全裸のおじさんたちは普通にランチを食べていて、その裸の背中には小さな白い翼が付いていました。おまけに、その翼はパタパタと小刻みに動いていました。

その姿はどう見ても天使でした。

ボクはまたメニューに視線を戻し、搾り出すようにつぶやきました。

「こ、ここは本物の天国なのか」

第四話:天国の使者たちは大騒ぎ

ボクは入口に立ったまま、これからどうすべきか考えました。

とにかくこの店にいるおじさん天使たちはみんな全裸なのだから、一人だけ洋服を着ているのもなんだか気が引けます。と言ってボクもここで全裸になるわけにもいきません。

ボクはちょっと考えてから、やはりここから脱出することにしました。

幸い店員はボクが入ってきたことに気づいていないようだし、ボクはジリジリと後ずさりしながら、後ろ手でドアのノブを探りました。

と、その時、一人のおじさん天使と目が合ってしまいました。そのおじさん天使はボクを見ると驚いたようにカッと目を見開き、バッと勢いよく立ちあがると、ボクを指さし「君は天使じゃない」と大きな声で叫んだのでした。

その声を聞いた店じゅうのおじさん天使たちが一斉にボクの方を向き、申し合わせたようにみんな同時に立ち上がりました。

そしてすべてのおじさん天使たちはボクを指さしながら「君は天使じゃない」と口々に叫び、その場で小さくジャンプを繰り返しました。

この合同ジャンプは天使たちの一種の抗議行動なのでしょうか、ジャンプする度に全裸のおじさん天使たちの緩んだ肉も皮も揺れ、背中の小さな翼も震えていました。

この世のものとも思えない光景を目の当たりにして、ボクはついに覚悟を決めました。

最終話:偽物天使たちの天国

おじさん天使たちは相変わらず小さなジャンプを続けていました。彼らは跳び上がっては落ち、落ちてはまた跳び上がっていたので、ドスンドスンという鈍い音が店内にこだましていました。

ボクはその光景をじっと見つめながら考えていました。

彼らは懸命に異分子であるボクを追い出そうとしているのでしょうが、その抗議行動であるジャンプが、彼らが偽物の天使であることを証明していました。彼らの背中の翼が、まるで役にたっていないからです。

おそらく彼らは、汚れた自分の人生を誤魔化すために天使になりすまそうと、恥じらいもなく全裸になり、偽物の翼を付けて外見を取り繕い、没個性が故の連帯感に依存し、必死になって現実から逃避しているのでしょう。

ボクは彼らを見つめながら、少し上昇しました。

偽物天使たちには気付かないでしょうが、ボクはこの店に入ってきた時から、数センチだけですがずっと空中に浮いていたのです。

そう、ボクの背中の翼は本物です。偽物天使たちの白い翼と違い、機動力のある大きくて透明な羽根です。これを使えば自由自在に飛びまわれるし、急な方向転換やホバリングも可能です。

ボクはさらに上昇しました。

これにはさすがの偽物天使たちも気付いたようで、無意味なジャンプを止め、驚いたように見上げると、ボクを羨望の眼差しで見つめ始めました。おそらく彼らはボクが汚れなき本物の天使だと思ったのでしょう。

しかし残念ながらボクは天使ではありません。妖精です。それに彼らにとって都合の悪いことに、妖精は天使と違ってこういう場合、容赦しません。

ボクは天井まで上昇すると梁に腰掛け、下で見上げている偽物天使たちに向かって魔法のつえを軽く振りました。すると、偽物天使たちの姿はスッと消え、そこには灰色と茶色の服を着たおじさんたちが残されていました。

彼らは「夜だったら高価なメニューも今ならお得料金で食べられるぞ、昼間から酒も飲めるぞ、こりゃあ天国だ」と言いながら、ガツガツとランチを食べていました。

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