湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


59.夜空の向こう

第一話:ボクの心のやらかい場所

最近の週末のパターンとしては、土曜日泥酔して日曜日は寝たきり、というのが続いていて、日曜日のたびに深く反省しています。だから次の週末こそは日曜日を有意義に過ごそうと、そればかりを考えて先週の土曜日を迎えました。

その日は朝から、何があっても飲まないよう理性を持って行動しようとずっと心の中で自分に言い聞かせていました。その甲斐あってか、画廊でいつものように「ビールがいい、焼酎がいい」と聞かれても、「熱いジャスミンティーをお願いね」と柄にもないことを言って空気を凍らせながらも、なんとかアルコールを避けて夕方まで持ちこたえました。

しかし、そんな大人げなく、無粋なことを繰り返してきたせいか、夕方の銀座を歩いていると、無性に寒々しくなってきて、居ても立ってもいられなくなりました。が、その気持ちを抑えてボクは電車に乗り込み、とにかく銀座をあとにしたのでした。

池袋行きの電車は空いていたのですが、ボクはドアを背にして立っていました。そして向い側のドアに映る自分の姿を眺めながら考えました。おそらくボクはこのまま帰ったところで、ぼんやりとテレビを見て、ときどき水槽の魚を眺め、あげくに本を読みながらウトウトとし、そのまま寝てしまうに違いありません。

そんなことをするぐらいなら、どこかで軽く飲んだほうが精神的にもいいし、だいいち今夜どんなハプニングに巡り合うかもしれないのだし、それによって人生が変わる可能性だってあるのです。このまま帰ったのでは、みすみすそのビッグチャンスを逃すことになります。

電車が新大塚駅にさしかかるころにはボクの考えは固まり、「ボクの心のやらかい場所」を締め付けていました。

第二話:運命の分かれ道

どこかで軽く飲むと言えば、だいたいいつもは大塚近辺で、丸の内線の新大塚駅からぶらぶらとJRの大塚駅まで歩き、北口商店街を抜けて馴染みの店に入り、居合わせた客といつものような話をし、同じような料理を食べ、それなりに満足するのですが、その日は新大塚駅では降りる気にならず、すんなりと終点の池袋に着きました。

まあ、大塚を通り過ぎたからといっても池袋は第二のプレイスポットですから、別段困ったこともないし、戸惑うことでもありません。

池袋には大塚に負けず劣らず、小粋な料理屋がたくさんあります。もちろんその多くの料理屋の中でも、こんな時にちょっと飲むのは、カウンターだけの小さな店で、ママは小粋で清楚な年配の女性というのが定番です。

その時もそう思っていたのですが、どうしたことかその日のボクは、若いママがやっている小料理屋にスルスルと入っていまいました。まったく自分の意志ではありません。

不思議なこともあるものだと思いながらビールをたのみ、適当に料理を選んでからぼんやりと飲んでいました。

しかしここまではべつに不思議というほどのことではありません。逆に、よくあることと言ってもいいかもしれません。

不思議なことはこれから起こるのです。

第三話:サラサラと移動する砂

小料理屋のカウンターに座ってぼんやりしていると、目の前に絵のようなものがあることに気づきました。それは額に入っていて、一部分がキラキラと輝いていたので、岩絵の具でも使っているのかと手に取ってみたのですが、どうやらそうでもなさそうだし、なにかの工芸品の一種なのか、砂が幾重にも重なって絵のようになっていました。

だけど芸術品としては、とても趣味のいいものとは言えないし、興味も持てなかったので元あった場所に戻し、またぼんやりとしていたのですが、どうしてもそれが目が入ってしまい、見るとはなしに見ていると、砂が重なった上の部分にオイルのようなものが乗っていることに気づきました

ボクはまたそれを手に取り、額ごと傾けてみました。するとやはり重なっていた砂はサラサラとゆっくり移動を始めました。

どうやらこれはオイルのような液体の中に数種類の色の砂が入っていて、額を傾けると砂が移動して、絵のような形を作るという代物のようです。

ボクは納得して、せっかくだから芸術的なフォルムを作ってやろうと思い、額をあっちこっとに傾けながら砂を移動させました。

何度かやっているうちにだんだんコツがつかめてきて、そうすると理想もどんどん高くなっていき、止めるに止められないままやり続け、とうとう11時近くになってしまいました。

不覚にもボクは4時間も砂と戯れてしまったのです。

しかし、まだ11時だし、泥酔というわけでもないので、ボクはもう一度だけやって止めようと思い、また砂を移動させ始めました。

もちろんこの時はまだ、これから始まる試練のことなど想像もつきませんでした。

第四話:明日に向けてカウントダウン

最後にしようと思っていたトライでもうまい具合に砂が移動せず、結局納得のいく形にはならなかったのですが、もう時間も時間だしそろそろ帰ろうと思い顔を挙げて店内を見渡してみると、砂に夢中で気付かなかったのですが店は満席で、もう閉店も間近だというのに、誰も帰るような気配はありませんでした。

ボクは不思議なこともあるものだと思いながら立ち上がり、カウンターの奥にいたママに「じゃあ、そろそろ」と言いながら、カバンを肩にかけました。

するとママは、「あらっ」というわざとらしい顔をして、「もう帰るの」と言いながら近付いてきて、そばまで来ると急に秘密を打ち明けるような小声になり、「明日は私の誕生日なのよ」とささやきました。

ボクはママの艶っぽい告白にも驚いたのですが、それを聞いてすべてが理解できました。

つまり、その日は土曜日だったので、ママの誕生日は日曜日になり店は休みです。しかしその日の12時を過ぎれば日付は変わって日曜日になるわけですから、このまま店に居ればママの誕生日を祝えるわけです。だから客たちは待っているのでしょう。まさに誕生日に向けたカウントダウン状態です。

ボクは納得して「じゃあ、もう少し居ようかな」と言いながら座り直しました。

その時は、たとえ12時を過ぎたとしても、終電はまだあるわけだし問題はないと思ったのです。

その甘い考えが間違いの始まりだったことは言うまでもありません。

最終話:夜空の向こうのムコウ

思えば、誕生日のカウントダウンなんて愚かなことで、だいいち夜中の12時を過ぎたからといって日付が変わったというのは屁理屈です。やはり普通に寝て、普通に起きて次の日を迎えるというのが本来の姿です。

そして朝のテレビ番組を寝ぼけながら見ていて、画面の中にある日付がどうも見覚えのある数字だなぁとか思いつつ、よくよく考えてみると自分の誕生日だということに初めて気づき、「ああ、今日は誕生日なのかぁ」とつぶやく程度がいいのです。大人の誕生日なんてだいたいそんなものです。 

ボクは砂を動かしながらそんなことを考えていました。

しかし、ここまで来たら付き合いというものもありますから、しらけてばかりもいられません。ボクは日付が変わる瞬間に向けて、しっかりと心の準備をしました。

そしてついに時計の針は12時を回り、日付が変わりました。

ボクは、きっとみんな口々に「おめでとう」と言い、ノリのいいヤツなんてクラッカーを鳴らすのではないかと思っていました。ところがいつまで経っても「おめでとう」という人は誰ひとりいなくて、ママもまったく誕生日が来たことなんて口にしませんでした。

不測の事態に、ボクはかなり動揺したのですが、それでも気を確かに持って一心不乱に砂を移動させているポーズを取りながらも、周りを観察し続けました。

しかし1時を過ぎても2時になっても何の動きもなく、とうとう明け方になり外は明るくなってきました。

その時、店の外にバイクが止まりドサッと何かを置く音がしました。ママはその音にすばやく反応しながらも、チドリ足でふらふらと入口のところまで行き、ドアを開けて朝刊を拾い上げると、それを広げてぼんやりと眺めていました。そして、何かあることに初めて気づいたように、ハッとした顔をしてつぶやきました。

「ああ、今日は誕生日なのかぁ」

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