湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


57.見知らぬ男

第一話:見知らぬ男

土曜日のボクの行動パターンと言えば、昼過ぎに銀座に出て画廊を何軒か回り、夕方になってからちょいと一杯飲んで帰る、というものなのですが、先週の土曜日はどうしたことかいつもより早く家を出てしまい、銀座に着いたのがまだ午前中で、画廊もまだ開いていないようだったので、人の流れに沿うようにボンヤリと歩いていました。

ちょうど銀座通りに差し掛かったところで、後から肩を叩かれたので、振り向いてみると、そこには見知らぬ中年の男が立っていました。

その男は馴れ馴れしく「久しぶりだな」と言うと、ボクの肩をポンポンと叩き、嬉しそうに笑っていました。

ボクはこの男にまったく覚えはなかったのですが、これだけ相手が感激していると、今さらどちら様ですかと聞くわけにもいかず、「やあ、どうもどうも」と言って誤魔化しながら、相手が差し出した右手をつかんで握手し、「いやあ、ご無沙汰しちゃって」と話を合わせて愛想笑いを浮かべました。

しかし、どんなに考えてもこの男が誰なのか思い出せず、しばらく愛想笑いを浮かべながら相手の出方をうかがいました。

その男はかなり興奮していたのですが、しばらくしてやっと落ち着いたのか、「何年ぶりだ?」と聞いてきました。

もちろんそんなことを聞かれてもさっぱり分からなかったのですが、その男はボクの答えを待つまでもなく、「もう30年振りになるな」と言って、感慨深げに遠い目をしました。

ボクは、そんな昔の知り合いだったのかと、かなり驚いたのですが、もちろんそんなことなど表情には出さず、「そうか、もうそんなになるのか」と、適当に口調も合わせて相槌を打ったのでした。

第二話:あくまでも見知らぬ男

30年振りということは、中学か高校の同級生くらいでしょうが、どう見てもその男が知り合いだとは思えませんでした。それに、もしボクたちが同級生だとしても、30年振りなのだから、街で会ったとしてもすぐに分かるとも思えませんでした。

しかし、再会を喜んでいるその男を無視するわけにもいかず、ボクは彼に誘われるまま、裏道の小さな店に入りました。

その店は地下にあり、階段を下りて汚れたような茶色いガラスドアを開けると、中は意外にも広く、一昔前の喫茶店のような雰囲気でした。店の隅にはジュークボックスらしきものがあり、今は使っていないようで、上に荷物が積み上げられていました。

壁には手書きで「コーヒー250円」という張り紙があるだけで、とても銀座で営業をしているとは思えないような活気のなさでした。

当然お客さんは他にはいなくて、ボクたちは奥の席まで行き、向かい合って座りました。すぐに店員がおしぼりを持ってやってきて、男はメニューにはないビールをたのみ、店員は黙って戻っていきました。

ボクはテーブルに置かれたおしぼりを見ながら、コーヒーが250円なのに、こんなちゃんとした布のおしぼりを出していては割りに合わないのではないかと、ぼんやりと考えていました。

しばらくしてビールが来て、おつまみに「柿の種」が小さな皿に乗って出てきました。こういう店では「柿の種」はけっこう定番です。

男は二つのグラスにビールをつぎ終わると、柿の種をつかみ、数粒を上に放り投げ、それが落ちてくるのを口でキャッチしました。

男はすべての柿の種を落とさずに口で受け止めてから、自慢げにボクを見て、「ひさしぶりだよ、これをやるのも」と言うとしばらく間を置き、遠い目をして、「あの時以来だな」と意味ありげにつぶやきました。

第三話:愉快な仲間

その男が昔を懐かしみ、まるで子どものように嬉しそうにしているのを見て、ボクもいつのまにかそれにつられて愉快になり、ビールを一口飲んでから「やっぱりビールは午前中に限るよね」とか言って笑い、グイっとグラスのビールを飲み干しました。

それを見ていた男は、コイツやるなっというような顔をして、自分もグラスのビールを一気に飲み干し、すぐにボクのグラスにビールをつぎ、自分のグラスにもつぎました。

ボクはビールが回ってきたせいか、もうこの男が知り合いかどうかなんてどうでもよくなってきたし、それよりもこんなに嬉しそうな男とビールを飲めることを素直に喜んでいました。

ボクたちふたりはお互いにビールをつぎ合い、グイっと飲んでから微笑み、柿の種をお互いに投げ合ってそれを口で受け止め、またビールをつぎあうというのを繰り返しました。

いつしかテーブルの上には柿の種が散乱し、そして数本の空ビンが転がった頃、入り口のドアが勢いよく開き、若い女性がひとり入ってきました。

その女性は若いというよりもむしろ幼いくらいで、中学生くらいに見えました。

彼女はスタスタと大またで歩いてきて、ボクたちが座っているところまでくると、切なそうに男を見つめ、「ごめんなさい」と言うと、男の頬に張り手を見舞ったのでした。

第四話:怒涛の往復ビンタ

女の子の張り手はジャストミートで男の顔にヒットし、スナップがよく利いていたので男の顔はきれいに横向きになりました。彼女は間髪入れずに、返す刀でもう一発、今度は男の反対側の頬を張り飛ばしました。

いわゆる往復ビンタです。

ボクは何事が起こったのかと思いながら、唖然としてみていたのですが、女の子は手を緩めることなく、矢継ぎ早に二度目の往復ビンタを男に見舞いました。

さすがに男の目はうつろになり、ドタンと音を立ててテーブルに突っ伏し、そのまま気絶してしまいました。

男が気絶したのを見届けた女の子は、今までの暴挙がウソのようにおしとやかになり、男の耳元に口を寄せてつぶやきました。

女の子が中年男をKOするだけでも驚愕の光景なのですが、彼女が男に言った言葉には、さらに驚かされました。

彼女は男の耳元に口を寄せ、悲しく沈んだ声で「もう帰ろうよ、おねえちゃん」とささやいたのでした。

最終話:ジュークボックスは泣いている

女の子はおねえさんといっしょに店を出ていきました。

いや、そんな気配がしただけで、ボクはうつむいたまま顔を上げることができず、そのまま腕を組んでしばらく考え込んでいました。もうすべてが分かってしまったのです。

目の前には気絶した中年男が残されていました。今や抜け殻と化したこの男のことを、ボクは一切知りません。正真正銘の見知らぬ男です。

ボクはやっとの思いで立ち上がり、ふらふらと店の隅の古いジュークボックスに歩み寄り、上においてある荷物をのけて、適当なボタンを押してみました。ジュークボックスは、シュルシュルと壊れかけたような音を立てて動き出し、やがて懐かしい歌謡曲が流れ始めました。

ボクはその歌謡曲を聞きながら、あの頃のことを思い出していました。それはちょうどこの歌謡曲が流行っていた頃、30年も前のことです。

ボクには幼なじみの女友達がいました。子どもの頃はよくいっしょに遊んでいたのですが、中学、高校になると、なんとなく付き合いにくくなり、関係は遠のくばかりでした。そんなある日、ボクが男友達とはしゃいでいると、彼女がやってきて「男同士はいいよね、バカみたいな付き合いが出来て」と言ったことがあります。その時の彼女の大人びた表情の意味はよく理解できなかったのですが、その出来事はボクの心の奥底に残っていました。

それが昨日の夜、30年振りの同窓会で、彼女が亡くなったことを知ったのです。彼女には中学生の妹がいたはずです。

ボクはジュークボックスのボタンを適当に押し直してみました。古いジュークボックスは相変わらずシュルシュルと変な音を立て、まるで泣いているようでした。

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