湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


53.なんとなく再会

第一話:なんとなく再開

先週、近所のスーパーに行っていつものようにブラブラ店内を歩いていたのですが、野菜売り場の前を通った時、ふと見ると、鍋用のダシ汁の横に、そのまんま鍋に入れれば大丈夫という「野菜パック」が置いてありました。ボクは、こりゃあ便利だと思い、そのダシ汁と野菜パックを買ってきて、説明書きのようにそのまんま鍋に入れて野菜鍋を作りました。

食べてみると、これがなかなか美味しくて、ダシもピリッと効いていて、ボクは思わず、「こりゃあヘルシーだ、それに安心、安全だ」と叫びながら、それを毎晩食べるのが習慣になりました。

ところが昨日の夜、いつものようにイソイソと野菜鍋を作ろうとしたのですが、どうしたことか、あれほど愛した野菜鍋なのに急にまったく食べる気にならなくなったのです。

心変わりは世の常ですが、どうしてこんなにも急に野菜鍋が嫌になったのかは分かりませんでした。しかし、もうすでにその時には野菜鍋が食べ物とは思えなくなっていたのです。

その代わりにボクの頭の中を占拠していたのは、「いなりずし」と「ならづけ」でした。この両者が口の中で融合していく様を想像しただけで、あま~い気持ちになり、ハートはとろけていきました。ボクはまるでベテラン演歌歌手のように遠い目をし、堅く握ったコブシを何度も振り下ろしながら、愛の歌を熱唱せずにはいられませんでした。

そして想いは募り、ついに「いなりずし」と「ならづけ」を探しに夜の街に出かけていったのでした。

第二話:禁断の恋

「いなりずし」と「ならづけ」を探しに夜の街に出たのはいいのですが、この組み合わせでは置いている料理屋の心当たりもなかったので、ボクはコンビニを探すことにしました。

理想としては、ダシ汁と野菜パックのように、二つが隣同士で寄り添っていてほしかったのですが、どのコンビニに行っても寄り添うどころか「いなりずし」はあっても「ならづけ」を置いている店はありませんでした。

思えば、「いなりずし」は庶民的な食べ物なのに、「ならづけ」となるとちょっとそうはいきません。「ならづけ」は酒カスで漬けているので、酒の味がするし、食べ過ぎて車を運転すれば飲酒運転になりかねません。それに漬物類の中では高価なほうなので、居酒屋のおしんこの中に含まれることもまずないし、かなり特殊なポジションにあると言わざるを得ません。

例えるならば、「いなりずし」が庶民的で誰からも愛される「定食屋の明るい看板娘」なら、「ならづけ」は表社会に背を向けた「気まぐれ旅ガラス」といったところです。これでは二人の仲を世間が認めるわけがありません。まさに禁断の恋です。

分かりやすく有名人に例えてみると、「いなりずし」は明るくて誰からも愛される、お嫁さんにしたいタレントナンバーワンの「安めぐみ」さん。とすると…、「ならづけ」はリリー・フランキーということになるか…。

ボクはここまで考えたところで、頭を抱えて低い声でうめきました。

「だ、だめだ、この組み合わせは認められない…」

第三話:思い出の店

ボクは頭を抱えたまま、夜の街を彷徨い歩きました。どうしてこんな禁断の組み合わせを考えついてしまったのかと自己批判もしたし、こうなってしまったものは仕方ないと諦めようともしました。

しかし心の整理がでないまま彷徨い歩き続け、ふと気づくと一軒の立ち食いそば屋の前に来ていました。そのそば屋は辺りが真っ暗だというのに、こうこうと灯りがついていて、店内はすこぶる明るかったのですが、お客さんは誰もいないようでした。

ボクは頭を抱えたまま、辺りを見渡してみました。周りは真っ暗だったのですが、どこか見覚えのある風景のような気がして、改めてその店の看板や造りを確認してみると、この店には以前来たことがあることにやっと気づきました。

といっても、来たのは一度だけで、それも20数年も前のことになります。その日もボクは今日のようにあてもなく歩いていて、ふらりとこの立ち食いそば屋に立ち寄り、そばを注文して待っていました。するとそこに一人の男が入ってきたのです。

その男は身長2メートルはありそうな大男で、その上やせていたので、さらに細長く見えました。彼はのっそりと店に入ってくると、穏やかな低い声で「いなりずし」を一つたのみました。

すぐに彼の前に「いなりずし」が一つ乗った皿が置かれたのですが、彼はなかなかそれを食べようとせず、ただ静かに慈しむように見つめていました。そしてボクがそばを食べ終わる頃、彼はやっと動いたのです。

その大男は「いなりずし」を箸でやさしく挟むと、ゆっくりと口に運びました。しかし彼はとても背が高く、顔は天井近くにまで達していたので、いつまでたっても「いなりずし」は彼の口に届きませんでした。それをボクの位置から見上げていると、「いなりずし」は空中遊泳を楽しんでいるようにも見えたし、強い意志を持って天を目指しているようにも見えました。

ボクはその崇高な光景に心を奪われ、心の中でそっとつぶやきました。

「ああ、なんて神々しい光景なんだ、いなりずしが生き生きと輝いている」

思えば、その時から「いなりずし」はボクにとって特別な存在になっていたのかもしれません。

ボクは頭を抱えたまま、ふらふらとその思い出の店に入っていきました。

第四話:運命のいたずら

その立ち食いそば屋に入ってからボクは店内を見渡し、店の隅に置いてあったビールケースを探し出すと、それを逆さまにしてカウンターの下に置き、その上に乗りました。こうすれば30センチは背が高くなる計算なので、あの時の大男と同じ視点になるはずです。

ボクは天井近くになった視点から厨房の中のイスに座っている店主を見下ろし、あの時の男のように穏やかな低い声で、「いなりずしを一つください」と言いました。

店主は、この演出にはまったく興味がないようで、無愛想にボクを見上げると「いなりずし」を一つ皿に乗せ、無言でボクの前に置きました。

天井近くから見下ろすカウンターは遥か下で、「いなりずし」はボクの前というより、足元に置いてあるような感覚でした。

ボクは、しばらくあの時の男のように「いなりずし」をやさしく見つめた後、ゆっくりと箸を持った手を伸ばしました。しかしその時、大変なことに気づいてしまいました。箸がまったく「いなりずし」に届きそうもないのです。考えてみれば当然のことで、ビールケースに乗って見せかけの身長は高くなっているのですが、腕の長さがたりません。あの大男とはリーチの差がありすぎるのです。

ボクは困ってしまって、照れ隠しに厨房の中の店主をチラっと見ました。

しかし、店主は相変わらずボクには興味がないようで、厨房の中においてあるテーブルの上の一箇所をじっと見つめていました。あまりにも真剣な店主の横顔に圧倒されて、ボクも店主の視線を目で追ってみました。そして愕然としたのです。

なんと、店主の視線の先には、一切れの「ならづけ」が置いてあったのです。

最終話:なんとなく再会

一時は諦めかけた禁断の組み合わせ、「いなりずし」と「ならづけ」ですが、今カウンターを挟んで隣り合って存在しています。運命のいたずらとはまさにこのことです。ボクは胸が高鳴るのを感じました。しかしこの運命の出逢いも、両者を同時に食べなければ意味がありません。ところが「ならづけ」は一切れしかないので、これを店主に食べられてしまえば、それでもう終わりなのです。

ボクは焦りました。ここであの「ならづけ」を失えば、二度と巡り会えないような気さえしてきました。そう思うと、なんとかこの一切れの「ならづけ」を守らなくてはならないという気持ちがフツフツと涌いてきて、それがどんどん強くなっていきました。

店主は依然としてテーブルから視線をそらさず、何かを悩んでいるかのように一切れの「ならづけ」をじっと見つめていました。

どのくらい緊張した時間が流れたでしょうか、ふいに店主が立ち上がりました。驚いたことに、立ち上がってみるとその店主は大男で、ビールケースの上に立っているボクと同じくらいの身長がありました。唖然として見ているボクを無視して、店主は何かを決意したように、ゆっくりと箸を持った手を一切れの「ならづけ」に延ばし始めました。おそらく食べる決心をしたのでしょう。

これはなんとか阻止しなくてはなりません。そう思いながらも、彼の動作を見て懐かしさがこみ上げてきました。この店主は、紛れもなくあの時の大男です。あれから20数年経っているので顔付きは思い出せませんでしたが、この箸を運ぶ動作は忘れようがありません。あれからどんな経緯で客から店主に転身したのかは分かりませんが、同一人物であることは疑う余地がありません。

皮肉にも、あの時ボクに「いなりずし」の真髄を教えてくれた恩師が、今こうしてボクに試練を与えようとしているのです。

しかし今は懐かしさに浸っている場合ではありません。とにかく店主が「ならづけ」を食べることを阻止しなくてはならないのです。ボクはとっさにビールケースから飛び降りると、カウンターからいっぱいに手を延ばし、店主が箸で挟もうとしていた「ならづけ」を間一髪で奪いとり、急いで口の中に放り込みました。

それを見ていた店主は驚いて、しかし低い声でゆっくりと言いました。

「だめだよぅ、猫のうんこ食べちゃぁ、箸でつかむのもエンガチョなんだからぁ」

口の中がモゴモゴしました。

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