50.たまえ
第一話:幻の気分転換法
ここ数週間は校正ばかりやっていて、毎日毎日膨大な量の校正紙を眺めています。
校正も数ページならまだいいのですが、何十ページも一気に見るとなると、どうしても集中力が途切れがちになり、ふと気づくと何にも見ないまま何ページも先に進んでいたりします。
そんな時、ボクは赤ペンを置き窓から見える青い空を眺めながら思います。
「ああ、あの気分転換法さえ使えれば…」
しかし、そう思ってすぐに打ち消します。
そう、あの気分転換法だけは使ってはいけないのです。確かにアレさえ使えば、こんな窮地なんて簡単に脱出することができるでしょう。それほどアレには抜群の効果があります。
しかし今それを使うわけにはいかないのです。あまりにも危険すぎます。使えばとんでもない事が起こるかもしれません。
だからボクはあの日あの時、自らの手でアレを封印したのです。まるでジャンボ鶴田が自らの手でジャーマンスープレックスを封印したように…。
第二話:幻の最強の男
ちょうどボクが気分転換法を封印したのと同じくらいの時期に、自らの手で必殺技を封印したジャンボ鶴田といえば、マニアの間では最強と呼び声が高い優れたプロレスラーだったのですが、若くして海外で亡くなってしまいました。
彼のジャーマンスープレックスは、それはそれは見事で、ビデオで一回見たきりなのですが、その大きく弧を描いたブリッジが脳裏にこびりついて離れないほどです。
しかし美しければ美しいほど危険なのは世の常で、あまりにも対戦相手にダメージを与えすぎるということで、鶴田はその必殺技を使うことを止めたのです。
強くて美しい男は常に悩み多きものです。
ボクの気分転換法も、ほぼこれと同じような経緯で封印されました。
ただひとつ違うことといえば、鶴田選手は対戦相手にダメージを与えすぎるのが原因でしたが、ボクの必殺技は自分自身がダメージを負ってしまうことが致命的だったのです。
第三話:幻の大技、別人格打ち
思えば、あの気分転換法の下地となる必殺技を見つけたのは学生の頃で、とてもあんな大技が誕生するとは思えないような、のどかな昼下がりの事でした。
ボクはこれといってすることもないので、街をブラブラと歩いていたのですが、ふとのぞいたパチンコ店があまりにも空いていたので、ちょっと入ってみました。
通りがかりに入った程度なので、勝負に対する執着心はそれほどなかったのですが、やり始めると玉がどんどん出だして、あっという間に箱がいっぱいになりました。そうなってくると欲が出るもので、ボクはこの調子で店中の玉を出してやろうと思い始めました。すると不思議なことに玉は全然出なくなり、しょうがないのでそろそろ帰ろうかなと弱気になると、また玉は出始めました。その繰り返しだったのです。
パチンコというものは山あり谷ありの長丁場が普通ですが、その時はあまりにも感情に左右され過ぎていました。つまり強気になると出なくなり、弱気になると出始めるという傾向がハッキリしていたのです。だからといって常に弱気だと出なくなってしまいます。おそらく「強気になって、すぐに弱気になり、またステージを変えて強気になる」というのが理想のようでした。
ボクはしばらく打つのを止めて考えました。つまり、これは感情をコントロールさえすれば大勝できるチャンスだということです。
ボクは精神を集中し、いろいろなパターンの強い人格と、さまざまな局面での弱い人格を取り揃えました。
そしてあの幻の大技、別人格打ちが完成するのです。
第四話:幻の秘技、究極の気分転換法
パチンコをやった人なら分かると思いますが、まったく出なくなった台を移動したとたんに、次に座った人がどんどん玉を出すということはよくあることです。
これは重要なヒントです。
つまり自分自身の感情の起伏をある程度コントロールして行くところまでいき、どうしても行き詰まったら別の人格に替わってしまえばいいのです。つまりこの別人格打ちは究極の気分転換法であり、いじめにあっている子供や、人生に希望を持てない大人たちにも教えてあげたいくらいの、思い切った打開策なのです。
ボクはこの別人格打ちで幾多のスランプを乗りこえ、パチンコ台は壊れたように玉を出し続け、店中の玉がボクのところに集まってきました。
しかしパチンコ玉に埋もれながらも、ボクは一抹のむなしさを感じていました。
この別人格打ちは、自分だけが別人格になっていればいいというものでもありません。重要なのは、周りの客や店員、そしてパチンコ台そのものにも別人格になっていることを納得させなくてはならないのです。そのためには、時に大声で独り言を言い、時に周りの客にからみ、ガンコおやじの人格になった時などは店員をしかりとばしながらパチンコをしなくてはなりませんでした。
これは若い学生にとってはかなり辛い事でした。成果は挙げられるのですが、やり始めると途中で止めるわけにもいかず、次々と人格を替えていくボクに周囲の目は冷たく、どんどん周りから人がいなくなっていきました。
そして、大成功を収めたその日、ボクはこの気分転換法を封印したのです。
最終話:幻の欽ちゃん走り
まわりの同僚たちは無言で作業を進めていましたが、ボクにはどうしても校正を続けることが出来そうにありませんでした。
ボクは校正の山を眺めながらため息をつき、そして思いました。
あの究極の気分転換法さえ使えば、こんな窮地を脱出することなんて簡単です。特にあの日最も効果のあった「欽ちゃん人格」に替わりさえすれば、こんな校正くらいへっちゃらで終わらせられるはずです。
ボクはそう思いながら、また空に目をやりました。その瞬間、体中を熱い血が流れていくのを感じました。それは体中の組織がすべて入れ替わっていくような感覚でもありました。そう、それはまさにあの日、究極の気分転換法を編み出した時と同じ感覚だったのです。そしてボクの意識はだんだん遠のいていったのです。
しばらくして、ボクは突然勢いよく立ち上がると、数メートル横走りしてから立ち止まり、甲高い声で「なんでそ~なるの」と叫びました。もちろん自分の意志ではありません。
そして「じゃあ、ハガキいきましょうか」と言いながら視線を落とし、すぐに顔を上げ、「のぞみ、のぞみはどこなの」と叫びました。そして「だめじゃないの、のぞみ。新幹線の中で席を替わってもらったり、上着を脱いでもらったりしちゃあ、世の中はのぞみの望み通りにはならないんだから」と諭すと、気を取り直して「さあ、ハガキ、ハガキ」と言いながら視線を落としたのですが、すぐにまた顔を上げ、「かなえ、かなえはどこなの」と同じように叫び、しかしすぐにしんみりとして、「かなえはいい子だよねえ、エレベーターの中で会ってもあいさつはちゃんとするし、だいいち笑顔がかわいい。だけどすぐに大人になってしまいそうで怖いのよ」と少し寂しそうにしてから、またまたすぐに気を取り直し、「たまえ、たまえはどこなの」といかにも大げさに周りを探してから、「どうせどこかでつまみ食いをしてるんでしょ」と軽い三段オチで締めくくると、勢いよく欽ちゃん走りで走り去っていったのでした。
周りの同僚たちが唖然としてそれを見送っていたのは言うまでもありません。