49.かなえ
第一話:木枯らしに負けず
早いもので東京にも木枯らし一号が吹いたとやらで、朝のニュースでやっていました。
確かに今朝いつものように公園を歩いていたら、並木の葉がどっさりと落ちていて、一気に冬が近づいてきたような気がしました。「木枯らし」とはよく言ったものです。
公園にはラジオ体操やジョギングをしている人たちもたくさんいたのですが、やはりすれ違う人はみんな寒そうにしていました。もう冬と言ってもいいくらいの寒さです。なんたって歩いているだけで汗をかいているのはボクだけでしたから。
公園から戻り、家を出る時刻までぼんやりテレビを見ていたのですが、なかなか時間が経たないので、今朝は早めに出ることにしました。
エレベーターの前まで来てボタンを押すと、ちょうど上から降りてきたところで、すぐに扉が開き、中には中学生くらいの女の子が一人乗っていました。彼女はボクと目が合うと、明るく爽やかに「おはようございます」と言って微笑みました。ボクも「おはーす」とかなんとかモゴモゴと言いながら乗り込みました。
毎朝このエレベーターに乗っているのですが、彼女に会うのは初めてでした。きっと今までは少し時間がずれていたのでしょう。ボクは背中に彼女の気配を感じながら、今日はいったい何分早く出たのか必死になって思い出していました。
第二話:出会ったらまずあいさつ
ここのマンションの住民はあいさつをする人が多くて、子供たちもエレベーターでいっしょになると明るくあいさつをします。
ボクも常識人の端くれとして、あいさつをされたら返すわけですが、大人に「おはようございます」と言われれば、「おはようございます」と答えればいいので簡単なのですが、子供の場合は少し考えてしまいます。
子供に対して「おはようございます」ではちょっと堅苦しくて距離を感じてしまいます。これでは子供たちも打ち解けられないでしょう。だからと言って「おはよう」では、すごく大人ぶっていて、まるで校長先生みたいです。となると言葉がなくなるので「うい~す」とか言って誤魔化してしまうわけです。
小さな子供ならそれでいいのですが(よくないか…)、中学生くらいになると言葉の原形を少し留めておかなくてはいけないと思い、「おはーす」くらいになります。
とかなんとか思っているうちにエレベーターは一階に着き、ボクはちょっと後を意識しながら一歩踏み出しました。こんな場合は声を掛けて出たほうがいいのだろうけど、どんな言葉が適切なのだろうかと迷っていたわけです。
するとその中学生くらいの女の子は、躊躇せず、そして明るく、別れのあいさつをしたのです。
それはごく当たり前の言葉だったのですが、ボクのハートを停止させかねないくらいの衝撃を持っていました。
第三話:「さようなら」は五つのひらがな
心臓が止まりそうになったのですが、それでも恐る恐る振り向いて少女の方を見てみました。すると彼女はエレベーターの中とは思えないくらい爽やかな笑顔で、さっきと同じように「さようなら」と繰り返したのでした。
一度ならず二度までもエレベーターの中で初めて会った女子中学生に「さようなら」と言われてしまったボクは、適当な返事が見つからないまま、「じゃあね」とかなんとか言いながらエレベーターを降りました。
マンションを出て駅まで向かう道を、ボクは胸を押さえて心臓が止まらないようにしながら歩きました。そして考えました。
確かに別れのあいさつは「さようなら」ではありますが、この言葉には言い知れぬ深い事情や強烈な意志が含まれているような気がしてなりません。だからせめて彼女が「さよなら」と言ったのなら、なんとか受け入れられたかも知れませんが、「さようなら」では、あまりにも重すぎます。
これがもう少し小さな子供だったら、「うい~す」とか言って聞き流してしまえばいいのですが(よくないか…)、中学生ともなると言葉に微妙な抑揚が付いていて、かえってそれが言葉の持つ深い意味を引き出してしまいます。
ボクは歩きながら頭の中で「さようなら」の言葉を繰り返してみました。そしてそれがいつしか懐かしの名曲のワンフレーズと化していったのです。
さようならは~♪ さようならは~♪ 五つのひらがな♪
第四話:ごく自然な展開
女子中学生の「さようなら」の言葉を聞いて以来、その余韻が頭を離れなくなりました。最初は心臓が止まりそうなほどの衝撃だったのですが、不思議なことに時間が経つうちにそれが快感となっていき、次第にまたあの衝撃を味わいたいと思うようになりました。
だからといって、そのために朝早く家を出るとかタイミングを合わせるとかいうのではなく、あくまでも機会があればという程度のものでした。
ところが、その機会は意外にもすぐに訪れたのです。
今朝エレベーターの前まで来ると、ちょうど階数を示すランプが上の階から降りてきているところでした。
ボクはひょっとしたら月曜日のようにあの女子中学生が乗っているのではないかと、少し期待しながらそのランプが降りてくるのを見守っていたのですが、エレベーターが止まりドアが開くと、奥にはなんと期待通りにあの女子中学生が一人で乗っていたのです。
ボクはこのごく自然な展開に心震わせていたのですが、そんなことはもちろん顔には出さず、あくまでも無関心な大人を装ってエレベーターに乗り込みました。
ボクが入っていくと、彼女は爽やかに「おはようございます」と言い、ボクはモゴモゴと「おはーす」と返しました。これまたごく自然な展開です。そしてボクはワクワクしながら彼女に背を向け、ドアに向かって立ったのでした。
最終話:時をかける少女
ごく自然な展開とはいえ三、四日のうちに、またあの「さようなら」という言葉を聞けるというのはラッキーなことです。今なら冷静にあの時の衝撃を分析することができるでしょうし、新たな発見もあるかもしれません。
そんなことを思っているうちに、エレベーターは一階に着き、ボクは外に出ながらちょっと後を振り向きました。内心はあの「さようなら」を聞けるという思いでワクワクしていたのですが、もちろんそんなことは表情には出しませんでした。
ボクと目があった彼女は、この前と同じように明るく別れのあいさつをしてくれました。しかし、それはあの待ち焦がれた「さようなら」ではなく、ちょっと距離を感じさせる「失礼します」という言葉だったのです。
ぼくは耳を疑いました。いつのまにか少女の別れのあいさつは「さようなら」から「失礼します」に変わっていたのです。いったいこの三、四日の間に何があったというのでしょうか。どんな心境の変化があって「失礼します」なんていう、ややこしい大人のあいさつに変わってしまったのでしょうか。彼女は瞬く間に時を駆け抜けてしまったというのでしょうか。
ボクは愕然としながらも表情には出さずエレベーターを出ました。そして数歩歩いたところで振り向いて反対側に歩いていった少女の方を見てみました。
その逆光をあびた後姿は、少し大人になったような気もしました。