46.幻の薬
第一話:謎のクスリ
先日、商店街を歩いていて薬局の前を通った時、なにげなく店の中を覗いてみると奥に顔なじみの薬剤師さんがいたので、「どもっ」って感じで小さく右手を挙げてあいさつをしたら、その薬剤師さんは慌てて店から飛び出してきました。
彼はアタフタと慌てていたにも関わらず、走りながらずっと怪しげな笑みをたたえていて、ボクのそばまで来ると周りを見渡し、誰もいないことを確認してから、小さな声で「やっと、例のヤツが手に入りましたよ」と言って、またまた怪しげな笑顔を見せたのでした。
彼とは歳が近いこともあり、顔を合わせると何かと健康法について語り合っていて、研究熱心な彼にいつも漢方のアドバイスを受けています。
その彼が、こんなに興奮しているのだから、相当な名薬が手に入ったに違いありません。
ボクは用心深く周りを見渡し、誰もいないことを確認してから、彼の耳元に口を寄せ、「むむ、やっと入りましたか」と低い声で答えました。
しかし、その時点では、何の薬が入ったのかはさっぱり見当がついていませんでした。
第二話:クスリの正体
彼は握り締めていた紙袋から小さな透明の袋を取り出し、それを手のひらの上に乗せました。覗き込んでみると、袋の中にはカプセル状のクスリが一個入っていて、カプセルも透明なので中の茶色っぽいかたまりがよく見えました。
彼は自慢げに「これが効くんですよ」と言うと、「やっとの思いで一袋だけ手に入れることができました」と、さも苦労したかのようにため息をつきました。
ボクはまだそれが何のクスリか分からなかったのですが、彼が相当苦労したようなので、「おお、それはご苦労さまでした、それにしてもなんて効きそうなクスリなんだ、やっぱりクスリは茶色じゃなきゃね」と適当なことを言って誤魔化しました。
それを聞いた彼は無言で微笑み、それからちょっと真面目な顔になると「だけど用法には気を付けてくださいよ」といつになく強い口調で言い、そして「これはヘトヘトになった時に飲む漢方ですから、くれぐれも他の時には飲まないでください。ヘトヘトじゃない時には絶対に飲んじゃダメですよ」と念を押したのでした。
第三話:ヘトヘトになった時に飲むクスリ
ついにボクは「ヘトヘトになった時に飲むクスリ」を手に入れたのです。これさえあればもう疲れ知らずで、どんなにハードな徹夜仕事だってへっちゃらです。
その日、ボクは必死になって働きました。脇目も振らずに一心不乱に仕事に打ち込み、周りの人たちはあまりのボクの猛烈ぶりに驚き、女子社員たちはエリートビジネスマンを見るような憧れの眼差しでボクを見ていました。
ボクは周りの熱い視線を感じながら、内心ほくそ笑んでいました。なんたって「ヘトヘトになった時に飲むクスリ」を手に入れたわけですから、どんなに働いたって平気です。いざという時にはあのクスリを飲めば、あとはスッキリ爽やかになるはずです。
ボクはそのまま延々と仕事を続け、深夜になって帰宅する頃にはヘトヘトになっていました。しかし心は晴れやかでした。こんな充実感は久しぶりです。あとはクスリを飲むだけです。
ボクはさっそく、上着の内ポケットに入れたクスリを取り出そうとしました。しかしそこで、ハタと考え込んでしまいました。果たしてボクの今の状態は本当にヘトヘトなのでしょうか。クスリは一錠しかないのだし、今後もっとヘトヘトになることがあるかもしれません。
ボクはしばらく考えた後、その日はクスリを飲むのをやめることにしました。
第四話:変化する肉体
それからヘトヘトになるようなことは色々とあったのですが、なんとか踏み留まってクスリを飲まずにいました。そのうちにどんなにハードな仕事をしても疲れなくなり、精神的にも余裕が出てきました。
これではせっかく薬剤師さんが苦労して手に入れてくれた「ヘトヘトになった時に飲むクスリ」を飲む機会がありません。
ボクは仕事関係ではヘトヘトになりそうにないので、スポーツをすることにして、珍しく仕事を早めに終えプールに出かけました。もちろんヘトヘトになるためですから、時間を忘れて泳ぎました。高校生の部活動だってこんなには根をつめて泳がないだろう、というくらい泳ぎました。
やがて閉館時間が迫り蛍の光が流れる中、制止しようとする監視員を振り切って泳ぎ続け、とうとう念願の「ヘトヘト」になることができたのです。
プールを追い出され、これでやっとクスリを飲めるぞと思いながら、電車に乗ったのですが、不思議なことに見る見るカラダは回復し、それどころか躍動感が体中にみなぎり、家に帰り着く頃には自然にスキップをしていました。
最終話:幻のクスリの秘密
どんなに猛烈に仕事をしても、まわりの制止を振り切って激しいスポーツをしても、ボクはヘトヘトにならなくなりました。それどころか仕事とスポーツで鍛えられ、どんなことにも挫けない強いハートと、疲れ知らずの肉体を手に入れました。
それでもボクはあきらめずにヘトヘトになる努力をしました。
しかし、強靭な肉体に加えて強くて安定した精神も手に入れてしまっているので、どんなに困難なことに挑戦しても、それをなんなく達成してしまい、さらに肉体も精神も成長していったのでした。
こうなると何をすればヘトヘトになれるのか分からなくなります。次はどんな困難なことにチャレンジすればいいのでしょうか。
そんなことを考えながら、いつもの商店街を早足で歩いていると、またあの薬局の前を通りかかったので、店内を覗き例の薬剤師さんを見つけ、いつものようにちょっと右手を挙げて「どもっ」のポーズをとりました。
ボクに気づいた彼はゆっくりと外までやってきて、あのクスリの効き目はどうかと、静かに微笑みながら聞いてきました。
ボクは正直に「抜群の効き目ですよ、まったくヘトヘトにならなくなりました」と答えながら、クスリが入ったままの上着のポケットをポンと叩きました。
それを見た彼はすべてを察したように、「そうでしょう、そうでしょう、あのクスリの効き目は抜群なんですよ、だけどなかなか量が集まらなくてね、困ってるんですよ、あれは」と言いながら意味ありげに笑い、自分の鼻の穴に指を突っ込んでグルグルとほじって見せたのでした。