44.心の旅
第一話:枯れ葉よ
それは、ちょうどクモを見ていた時のことです。
クモと言っても、空に浮かぶあの雲のことではありません。ベタベタの糸で巣を作っている、あの蜘蛛のことです。
別に蜘蛛を観察したかったわけではないのですが、公園で屈伸運動をしていたら、足元を小さな蜘蛛がはっていたので、何気なくそれを目で追っていたのです。
蜘蛛は忙しげに歩きまわり、枯れ葉の間を出たり入ったりしながら移動していました。蜘蛛が歩いた跡には透明の糸が張り付いていました。
ボクはそれを見ながら、「どうして夏なのに地面は枯れ葉だらけなのだろう」と考えていました。まわりを見渡しても枯れ葉でいっぱいでした。
枯れ葉というのはどうしても秋のイメージがあります。だからといって今の季節が秋のはずがありません。まわりの人たちも暑そうにしているし、みんな涼しげなかっこうをしています。
ボクは「梅雨が明けたばっかりなのに、もう秋であるはずがないな」と自分に言い聞かせるようにつぶやきました。
するとその時、「アキです」という声が後ろからしました。
驚いて振り向いてみると、そこには若い女性が一人立っていて、彼女はボクと目が合うと「もちろんアキという名前でも、アキコという名前でもありません」と、身も蓋もないことを付け加えました。
第二話:講談師は秋の精
ボクがマジマジとその女性を見ていると、彼女はちょっと困ったように目を反らし、「アキヨという名前でも、アキヤマという苗字でもありません」とさっきのセルフの続編のようなことをボソボソと言い始めました。
それでもボクがマジマジと見つめていると、彼女は「エヘン」と一つ咳払いをしてから、気を取り直したのか、「ではなんのアキかと申しますと」と急に流暢な語り口になりました。
その口調はまるで講談師のようで、合いの手を入れたくなるくらい滑らかなものでした。
彼女は扇子で机をポンと叩くポーズを取ってから、「いろいろとご意見はおありでしょうが」と続け、「実は私は”秋の精”なのです」とキッパリと言い切り、もう一つ机をポンと叩きました。
それを聞いていたボクは、少し間を置いてから無反応のまま立ち去ろうとしました。
すると彼女は慌てて、「あ、ちょっと待って、ちょっと待って」とボクの腕を取って引き止めました。
まあ、お約束というか、定番の展開ではあります。
しかし、いくら彼女が流暢な講談師だからといって、いつまでも彼女と付き合っているわけにもいかないので、ボクはちょっと意地悪く「だけど、ボクが知っている秋の精とはずいぶん違うような気がしますよ」と言い返しました。
すると、彼女の顔はパっと明るくなり、「あ、それはお姉さんだわ、お姉さんってお母さん似なの、私はお父さん似だから…」とかなり古くて痛いネタで答えました。
ボクは本当に逃げ出したくなりました。
第三話:若き妖精の悩み
場がしらけてしまったことに気づいたのか、秋の精は「ふう」とため息をつくと、急に落ち込んだように「やっぱり向いてないのかな」とつぶやくと、両手で顔を覆いました。そして、ポツリポツリと身の上話を始めたのです。
途切れがちな彼女の話をまとめると、だいたい次のような内容でした。
まず彼女が嘆いていたのは、妖精の身分の不安定さと仕事に対するやりがいでした。妖精になる前は人に喜びを与える仕事だと思っていたのに、いざ妖精になってみるとそれほど重要な仕事はなく、特に「秋の精」の彼女は、秋になるまでずっと仕事がなくてブラブラしていることが多いのだそうです。
そのうち失望して堕落していく仲間も増え、彼女はそれではいけないと思い、講談師の修行をしたり、笑いの勉強をしたりして、なんとか妖精の地位を向上させようと努力しているということでした。
ボクは彼女の話を聞いて、素晴らしい向上心だと感心しました。秋までブラブラしていればそれで済むのに、近頃珍しいほどの骨のある生き方ではありませんか。ボクは彼女の役にたつことは何かないかと考えました。
しかし、妖精の仕事がいまいちよく理解できなかったので、なかなかいいアイデアも出ず、だからといってもう一度聞いてみようにも、彼女はさっきからずっと両手で顔を覆ったままでした。
ボクが躊躇していると、「それは…」と彼女が先に話し出しました。さすが妖精です。心が伝わるのでしょう。
顔をあげた彼女の目の周りは涙で真っ黒になっていて、片方のまつげが頬の辺りまで落ちて来ていました。
第四話:ああ、愛すべきは秋の精
ボクはこの向上心豊かな若い妖精に心を奪われました。
思えば、四季の移ろいの中で、夏と秋の境ほどはっきりしているものはありません。それは、普通夏休みが8月31日までなので、その終わりとともに夏も終わるような気がするからです。だからどんなに涼しくても8月のうちは夏であり、まだ暑くても9月になれば秋が始まるのです。
彼女は「秋の精」なのだから、9月1日の秋の始まりを待って出てくれば、心から人々に歓迎されるでしょう。彼女を見つけた道行く人たちは、口々に「あ、小さい秋見つけた」と言って、心に潤いを持つでしょう。それが妖精というものです。
しかし彼女はその安易な道を選びませんでした。
彼女があえてこの8月の時期を選んで現れたのは、季節という概念に挑戦しているからなのでしょう。夏だから海に行くとか、秋になったから長袖を着るとか、そんな安直な発想を戒め、既存概念に支配されることなく、心から四季を感じることの重要性を主張しているのです。
ボクは夢中になって彼女と話をしました。秋のすばらしさとか、秋の食べ物のおいしさとか、自分はてんびん座だから秋の精とは相性がいいとか、話題は尽きませんでした。
時を忘れて話し続けるとはこの事です。いったいどのくらい時間がたったのか見当もつきませんでした。それが数時間だったのか、3、4日経ってしまったのか…。
ボクもさすがに話し疲れ、彼女に背を向けて空を見上げながら背伸びをしました。そして「ああ、いい天気だ、夏だから海にでも行きたいな」と、つい言ってしまったのです。好意を持った若い妖精をちょっと誘ったつもりでした。
その瞬間、背後で彼女の気配がスッと消えるのを感じました。
最終話:そして、心の旅
ボクは振り向きもせずに、しばらくクモを眺めていました。
クモと言っても、ベタベタの糸を出して巣を作っている、あの蜘蛛のことではなく、空に浮かぶ雲のことです。
なんてバカなことを言っている場合ではありませんでした。もう妖精はいなくなってしまったのです。
思えば、ボクが「夏だから海に行こう」と言ったために彼女は消えてしまったのです。しかしどう考えても、ボクがそんな普通のことを言うこと自体、不思議でなりませんでした。こんな当たり前の言い回しを、今までしたことがないのです。いつもいつも言葉をこねくり回して使ってきたし、それが身上ですから。
なのにどうして「夏」という秋の精にとっての禁句と、それによって安易に連想できる「海」を組み合わせてしまったのでしょうか。
もうこれは「恋」としか言いようがないでしょう。向上心豊かな妖精が、ボクの偏屈な心を溶かしてしまい、それゆえに心の奥底から素直な言葉が自然に出てしまったのです。ひょっとすると、本来のボクは素直で健全な思想の持ち主なのかもしれません。
ボクはまた空を見上げました。相変わらす雲はゆっくりと流れていました。
そう、こんな時は旅に出るしかありません。旅といっても「小さな秋」を見つける心の旅ですが…。
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あとで聞いた話なのですが、今週初めは東京では気温が上がらず、秋のように涼しかったということでした。今週初めと言えば、ボクと秋の精が会っていた頃ですから涼しいのも当然です。これから週末にかけて夏らしくなるに違いありません…。