湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


41.散歩

第一話:ある朝の出来事

プロフィールにあるように、ボクの主なプレースポットは光が丘公園の板橋側です。そして晴れた日には練馬側のバードサンクチュアリで水鳥を見ます。ですから光が丘公園は勝って知ったるわが庭のようなものだとずっと思っていました。しかし、公園とはもっと奥深いものだったのです。そう、それを思い知らされた出来事が、ある朝の公園で起こったのです。

その日はどうしたことか朝早く目覚め、これといってすることも思いつかなかったので、たまには早朝の誰もいない公園もいいものだろうと思い、イソイソと出かけました。

しかし、公園に入ってみると、朝の6時過ぎだというのに意外にも人が多くて、散歩をしている人やジョギングをしている人など、まるで大通りのような賑わいでした。

恥ずかしがり屋のボクとしては、あまりの人の多さに戸惑ってしまい、隅のほうをコソコソと控えめに歩いていたのですが、ある時を境にパッタリと人に出会わなくなったことに気づきました。

何が起こったのかと思い、立ち止まって辺りを観察していると、どこからともなく聞きなれたメロディーが流れてくるのに気づきました。その音はとても小さかったのですが、小学生の頃に何度も何度も聞かされたメロディーですからすぐに分かりました。

ボクは音のほうに向かって歩いてみました。

しばらく歩いていくとその音はどんどん大きくなっていって、ハッキリとあの懐かしいメロディーであることが分かりました。音は木立の向こうのグラウンドから聞こえてきていました。

グラウンドからあのメロディーが流れているのですから、そこで何が行われているかは当然分かりました。ボクは昔を懐かしみながらグラウンドを覗いてみました。そして愕然としました。


そこには予想をはるかに超える人々が集結していて、一心不乱にあの体操に興じていたのです。

第二話:ラジオ体操

次の日もうなされるように目が覚め、時計を見ると昨日と同じようにちょうど6時を指していました。

ボクは昨日と同じようにイソイソと公園に出かけ、昨日と同じコースを歩きました。

そして考えました。

このまま昨日のように歩いていくとグラウンドに出ます。そこでは昨日と同じように多くの人々がラジオ体操をしているに違いありません。

ボクはどうすればいいのでしょう。

仮にラジオ体操の輪の中に入り、みんなと同じようにラジオに合わせて体操をやっていれば、周りのみんなはボクがラジオ体操をやっているのだな、と思うでしょう。

いくらボクが「いやいや、別にラジオ体操をやっているわけじゃありませんよ、メロディーに合わせてストレッチをやっているだけですよ」と言ったところで、「それがラジオ体操じゃん」と言い返されるに違いありません。

「いやいや、これはラジオ体操ではなく、よく似ているけどNASAで開発された宇宙遊泳のための準備運動なんですよ」と少年のようなウソをついたところで、「どう見てもラジオ体操じゃん」と相手にされないでしょう。

どうしようもありません。

なんとラジオ体操とはあからさまな行為なのでしょうか。

ボクはその日も体操の輪に入ることなくグラウンドの前を素通りしてしまいました。

第三話:天使のハート

とうとう早起きするのが習慣になってしまったようで、次の日の朝も目覚めると6時ちょうどでした。

ボクは凝りもせずにイソイソと公園に出かけ、いつものように同じ散歩道を歩きました。歩くコースは毎朝ワンパターンなのですが、自分でも不思議なくらい同じ道を歩くことに満足していました。

昨日と同じ道を歩きながら、飽きもせずに傍らの草花に心を寄せ、些細な変化に心を揺らしました。

まるで天使のハートが宿ったかのような清らかな心持ちでした。

ボクはスキップしながら草花の中に入っていき、背中の小さなハネをパタパタと羽ばたかせながら草花の話に耳を傾け、ひとしきり花たちの話が聞けたら、胸の前で両手を組み、天を仰いで祈りました。

「世の中からすべての争いごとがなくなりますように…」
「今日という日が世界中の恋人たちにとって記念すべき日になりますように…」

しばらくそんなことをやりながら歩いていると、またラジオ体操の音がかすかに聞こえてきました。

ボクはいつもと同じようにグラウンドの方に向かいました。

グラウンドに着くと、やはり多くの人たちがラジオ体操をしていました。しかしボクには、あからさまな行為であるラジオ体操など出来るはずもありません。そんなこと、想像しただけで恥ずかしくなってしまいます。

ボクは木の陰に隠れて人々の姿を見守りました。

「大きく腕を伸ばして~」というフレーズが妙に耳に残りました。

第四話:小さな目撃者

ボクは大きな木に隠れて、グラウンドでラジオ体操をしている人たちをこっそりと観察していました。頭の中では相変わらず「大きく腕を伸ばして~」というフレーズが繰り返されていました。

しばらくそうやって観察していたのですが、ボクは意を決して木の陰からスルスルっと抜け出し、一番そばにいた年配の女性のそばまで近づいてみました。しかし、その女性と目が合いそうになったので、またスルスルっと木の陰に戻ってきて隠れました。

まだ心の準備が出来ていなかったのです。

その年配の女性がやっているのは、ラジオ体操であって、否定のしようがありません。もしその女性がボクに「私は何をしているように見える」と聞いてきたら、ボクは「ラジオ体操」と答えるしかないでしょう。しかし、そんなあからさまなことを言うわけにはいきません。だからと言って気の利いたことも思いつきません。

ボクは絶望して木の幹にすがりつきました。

頭の中では相変わらず「大きく腕を伸ばして~」というフレーズが繰り返されていて、ボクはなにげなくそのフレーズに従って大きく腕を伸ばしてみました。すると、これがすこぶる気持ちよくて、体中の血の流れがいっぺんによくなるような感覚でした。さすが不滅の名作、ラジオ体操だけのことはあります。

ボクは味をしめて、もう一度大きく腕を伸ばそうとしました。

するとその時、危険を察したのか背中のハネがピクンと動きました。

ボクは警戒しながら辺りを見渡しました。すると背後に4、5歳の男の子がいて、怪訝そうな顔をしてボクの様子を眺めていたのです。

なんとボクは、こともあろうにラジオ体操をしているところを、その男の子に目撃されてしまったのです。

最終話:夢のようなひととき

男の子はじっとボクを見つめていて、何か言いたそうでした。

おそらくこの子は、ボクがみんなと同じようにラジオ体操をしていたのだと思っているに違いありません。確かにそう思われても仕方のない状況ではあります。

しかしボクにも言い分はあります。

ラジオ体操とはラジオの音楽に合わせてする体操のことですから、正確に言えばボクがしていた行為はラジオ体操ではありません。ボクは頭の中を繰り返し巡っていた「大きく腕を伸ばして~」というフレーズに合わせて、ついつい体を動かしてしまったのだから、これは「思い出し体操」もしくは「うっかり体操」のはずです。

しかし、相手は小さな子供ですし、言い逃れをするわけにもいきません。ボクは覚悟をきめ、満面の笑みで男の子に向かい、「おじさんはラジオ体操をしていたんだよ」と告白するつもりでいました。するとそれより先に男の子は口を開き、ボクを驚喜させたのです。

男の子はボクが今まですがり付いていた大きな木を指差し「おじちゃん、その木にはカブト虫はいないよ」と言うと、悲しみを分かち合うかように沈んだ顔をしたのです。

それを聞いてボクは愕然としました。目からウロコとはこのことです。こんな解決法があったなんて思ってもみませんでした。ボクは「その手があったか」とポンと手を打つと、男の子のことなど放ったらかしてグラウンドを目指して爆走し、ラジオ体操の輪の中に入り込みました。

しかしもちろんラジオ体操なんてやっていません。ラジオの音楽に合わせてみんなと同じように体を動かしてはいたのですが、目的が違います。

ボクは、大きく上に腕を伸ばす時は「カブト虫はいないかな」と目を見開き、下に手を伸ばす時は「アリさんはどこかな」と地面をくまなく観察しました。これはどう見ても昆虫採集であって、断じてラジオ体操ではないのです。

ボクは音楽に合わせて体を躍動させながら、夢のようなひとときを満喫したのでした。

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