湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


37.野の球

第一話:謎の小さな選手

あたたかくなってきたので、家でゴロゴロしているのも勿体無いので、近所のプールに泳ぎにいきました。

そのプールは大きな公園の中にあって、公園の中には他にも野球場、テニスコート、陸上グラウンドなどがあって、その日は休日だったのでどのグラウンドも大変な賑わいでした。

ボクはスポーツに熱中している人たちを横目で見ながらのんびりとプールに向かいました。

思えばプールというのはお手軽なもので、思い立ったらすぐに泳げるし、気が向かなければ途中で止められます。しかし野球にしてもテニスにしても、他のスポーツではそうはいきません。場所の予約もあるだろうし、対戦相手も確保しなくてはいけません。

ボクはそんなことを考えながら、それだけの手順を踏んでからのスポーツというものは、きっと終わったあとの達成感も格別に違いない、と思いながら歩いていました。

プールは空いていて、ボクは適当に泳いでからすぐに止め、野球場の前にあるベンチでのんびりと野球を見ながら涼んでいました。

野球場では試合をしていて、両チームともお揃いのユニホームを着ていて、ピッチャーが投げる球も速く、審判もちゃんとした格好をしている本格的なものでした。

ボクはそれほど熱心に見ていたわけではないのですが、ライトの選手がやけに小さいのが気にはなっていました。

と言っても、それほど野球に興味があったわけでもないし、十分涼んだので、そろそろ帰ろうかと思い、腰を上げかけた時、ちょうど攻撃が終わり外野から選手たちが帰ってきました。

その時、やっと小さな選手の正体が分かったのです。

第二話:走る少女

ライトから走ってきたのは、小柄な少女でした。長い髪を後ろで束ね、帽子を目深に被っていたので、遠目には分かりませんでしたが、近くからみると中学生くらいの目元涼しい麗しの乙女でした。

最初は、試合のメンバーが足りなくて、大人に交じってやっているのかと思ったのですが、それにしてはユニホーム姿がしっくりしていたし、身のこなしも慣れているようなので、急に参加したわけではないことは分かりました。

少女は当たり前のようにヘルメットを被り素振りを始めました。

おそらく次のバッターなのでしょうが、その素振りはなかなかのもので、何と言うかスイングがスムーズでした。

ボクはベンチに座り直し、その麗しの少女のバッティングを見守りました。

ピッチャーは容赦なく速球を投げ込んできて、その度にキャッチャーのミットが派手な音を立てていたのですが、少女は平然と見送っていました。おそらく少女の実力は相当なもので、ピッチャーも手加減する気はまったくなさそうでした。

何球か見送った後、少女がスイングすると、鋭い当たりが内野に飛んだのですが、野手の正面だったので、残念ながらアウトになってしまいました。

ボクは「ああ、なんてこったい」と、いつになく大げさに天を仰ぎました。

少女はアウトになって一塁からうつむき加減に戻ってきたのですが、その表情は涼しげで、あの鋭い当たりを打った強打者とはとても思えませんでした。彼女は打っても走ってもアウトになっても、まったく優雅さを失うことはなく、「麗しさ」を保ち続けていたのです。

ボクは「ああ、なんてすばらしいんだ」と、いつになく力を込めて拳を握り締めました。

第三話:春の日差し

守備についていても少女は可憐でした。

遠く外野に立っている姿は、まるですみれを摘みに来た乙女のようにほのぼのとしていて、春ののどかさを感じさせました。その麗しい姿に惹かれて公園中の鳥や動物が集まってきそうな、そんなメルヘンチックな雰囲気さえありました。

しかしひとたび打球が飛ぶと、少女は文字通り球よりも速く走り、悠々と落下地点にたどり着くと、難なく捕球しすばやく内野にボールを返しました。

流れるようなプレーなのですが、それでも「麗しさ」は保ち続け、その度にボクは「ああ、なんてすばらしいんだ」と、心の中で叫びました。

ボクはそんな少女の活躍を眺めながら、ベンチで春の日差しを浴びていました。

プールではそんなに泳がなかったのですが、やはり泳ぐと疲れるもので、ちょうどいい具合の脱力感がありました。

少女は相変わらずチェンジになるとうつむきながら戻ってきて、打順が回ってくると強打を発揮し、軽快に走り、その度にボクは「ああ、なんてすばらしいんだ」と心の中で何度もつぶやきました。

いっそこのまま永遠にこの試合が続いてくれればいいのに、と無責任に思ったりもしましたが、そんな心の叫びなど届くはずもなく、ついに試合は最終回を迎えました。

そして、事件は起きたのです。

第四話:接近する麗しき姿

最終回になって、少女のチームの最後の攻撃になりました。少女のチームは負けていたようでしたが、まあ草野球ですから、それほど勝負に執着してもしょうがないので、ボクはただこのまま終わってしまうのはもったいないな、と思いながら少女の姿を追っていました。

打席には普通の選手が入って、ごく普通にバットを振っていました。彼にしては渾身のスイングだったのでしょうが、当たり損ねが続き、その中の一球が迷惑にもボクが座っているベンチに向かって飛んできました。打球は力なくボクの手前数メートルの所に落ちると、少し転がって止まりました。

ボクはハタと困り果てました。

周りには誰もいないし、このボールをどうするかはボクにかかっています。このまま放って置くわけにもいかないでしょうし、だからといって子供のキャッチボールではないので、気軽にボールを投げ返すもの適切とは思えません。

ボクはボールを睨みつけながら、どうしたものかと考えました。

しばらく考えていたのですが、結局そのまま放って置くことにしました。ゲームはもう別のボールで再開していたし、このボールを拾っても投げ返す場所がわかりません。変な所に投げてしまったらゲームを中断しかねません。

ボクは知らん顔して、ベンチに座り直してグラウンドに目を移しました。

するとグラウンドからこちらに向かって走って来るユニホーム姿の選手がいることに気づきました。おそらくボールを拾いに来ているのでしょう。

その姿を見て、ボクはまたまた困り果てました。

その麗しき姿は、紛れもなくあの少女だったのです。

最終話:やはり可憐な後姿

ボクは走って来る少女には目を向けず、遠い目をして考えました。

今ボールが転がっていることに気づいた振りをして、少女に投げ返えそうかとも思ったのですが、もうかなり少女は近づいているし、すでにタイミングを逸してしまっていました。

あとはせめて、ここで日向ぼっこをしているのではないと少女に分かってもらえるように振舞わなくてはなりません。

本当の話、ボクは今までプールで泳いでいたわけだから、言うなれば少女と同じようにスポーツを満喫しているスポーツマンなわけです。その後たまたまベンチで休憩しているだけであって、けっして試合を眺めるためだけにここに座っているわけではないのです。

ボクはとりあえず肩をまわして、クロールのフォームの調整をしている振りをしました。こうすれば今までプールで泳いでいて、その時の問題点をクールダウンしながらチェックしているように見えるはずです。どう見ても研究熱心なスポーツマンです。

少女はやはり俊足で、すぐにボールのところまでたどり着くと、ボールを手に取りました。

ボクは少し緊張しました。

その時、カキンというするどい音がして、少女のチームの打者が鋭い打球を飛ばしました。少女はグラウンドを振り向いて打球の行方を追い、それが野手の間を抜けると、その場で飛び跳ねて全身で喜びを表現すると、まったくこちらを見ることなく、グラウンドに戻っていきました。

その後姿は、やはり麗しく可憐でした。

ボクは言い知れぬ疎外感に苛まれながら、クロールのポーズで止まったまま、少女の後姿を見守るしかありませんでした。

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