湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


33.池袋の昼下がり

第一話:謎の行進

もうずいぶん前のことになるのですが、学生の頃テレビを見ていたら「夜の池袋~」という古い歌が流れていて、そのバックにひなびたアパートが映っているシーンがありました。

その怪しげな流行歌もさることながら、バックに映っていた古いアパートが気になってしようがなく、結局池袋に移り住みました。それ以来池袋近辺を離れることなく、今も池袋から出ている私鉄沿線に住み続けています。

池袋は近代的なビルも多いのですが、ちょっと裏道に入るとまだ古い建物が至る所に残っていて、何十年も変わらない風景があります。特に西口周辺には時が止まっているような場所が多くて、歩くたびに何か新しい発見があります。

さて先日の土曜日、その池袋西口近辺を歩いていたのですが、ちょうどお昼時になったので、穴場の洋食屋でも探そうと裏通りに入りました。

あてもなくぶらぶらと歩いていたのですが、ふと前を見ると大きなリュックサックを背負った年配の男性が数人連れ立って歩いているのに気づきました。

何気なくその人たちの後を歩いていたのですが、裏道から見通しのいい大通りに出たところで、彼らは三十人くらいの集団の一部であることがわかりました。その集団は縦に一列になって行進していて、何人かの人の手には旗が握られていました。

どう見てもこれはただならぬ集団だと思い、ボクはその集団の最後尾に付いて歩くことにしました。

第二話:増殖する集団

その集団の参加者はみんな同じようなウインドブレーカーを着ていて、手袋をし、帽子を深々とかぶっていました。防寒対策は万全のようで、みんながみんなそんな重装備なので年恰好は分かりにくかったのですが、最後尾の人たちの雰囲気からすると、みんな年配の人のようでした。

数人が手にしている旗は、なにかのシンボルマークが印刷してあるように見えましたが、それが何を意味するのかはわかりませんでした。

参加者はいかにも楽しそうに雑談をしながらのんびりと行進していたのですが、列は乱れることなく整然としていて、ボクは最後尾から少し間を置いて近づき過ぎないようにしてゆっくりと歩いていきました。

しばらく歩いていると、奇妙なことに気づきました。その集団はみんな立ち止まらずにゆっくりと歩いているだけなのですが、その数がどんどん増えているように思えたのです。

裏通りは入り組んでいて、曲がり角が多いので確かな人数は把握できなかったのですが、どう見ても同じような格好をした人たちがどこからともなく合流しているように思えました。

不思議に思いながら歩いていると、集団が突然立ち止まりました。

ボクは思わず横道に隠れ、しばらく間を置いてそっと覗いてみたのですが、その時にはもう集団は行進を再開していたので、あわてて横道を飛び出し、集団を見失わないように小走りに後を追いかけました。

追いかけながら集団が立ち止まっていた所を確認してみると、そこには熊谷守一美術館がありました。

第三話:桜ヶ丘パルテノン

熊谷守一美術館がこの辺にあるのは知っていたのですが、来たことはなかったので入ってみたかったのですが、のんびり絵を見ているとあの集団を見失ってしまうので、ボクは美術館の前でちょっと立ち止まって、すぐに思い直して集団を追いかけました。

集団はすぐに見つかりました。ゆっくり歩いているのと、所々で立ち止まっているので、なかなか前に進まないようでした。

集団の人たちは立ち止まると、旗を持っている人は旗を振り、そうでない人は顔を見合わせて微笑み合いました。

そんなことを繰り返しながらゆっくり進み、集団は桜ヶ丘パルテノンのところに差し掛かりました。

桜ヶ丘パルテノンというのは、昭和初期にこの辺一帯にあった貸しアトリエ村のことで、画家や彫刻家が多く住んでいました。当時は池袋周辺にはこのようなアトリエ村が他にもあり、若き芸術家たちの創造と議論の場になっていました。

いまでは桜ヶ丘パルテノンの名前の由来になった桜の木が残っているくらいで、ごく普通の街並みになっています。

集団はこの桜ヶ丘パルテノンの前でも立ち止まり、旗を振り、互いに微笑み合いました。

ここから先は行列が直線になっていたので、ボクは集団の先頭を確認しようとしたのですが、この時にはもう先頭が見えないくらいに集団は膨れ上がっていたのです。

第四話:消えた集団

集団は所々で立ち止まり、その度に旗を持っている人は旗を振り、そうでない人たちは互いに顔を見合わせて微笑み合いました。集団は行進するたびに人数が増えているようで、旗の数は確実に多くなっていきました。

集団が大通りに出て横断歩道を渡りはじめた時、やっと集団の全体像が見えてきました。なんとその時には集団の数は数百を越えるほどに膨れ上がっていて、どう見ても一度に横断歩道を渡り切れるような数ではなくなっていたのです。

集団の人たちは急いで渡っているようでしたが、やはり渡っている間に信号が変わり、半分くらいの人が取り残されてしまいました。先に渡った人たちは先に進まず、取り残された人たちを横断歩道の向こう側で待っていました。

ボクは唖然としてその光景を眺めていました。いったいこの大集団は何をしようとしているのでしょうか。どこに行こうというのでしょうか。

信号を待っている間も人々は見つめ合い、微笑み合っていたのですが、やがて信号は変わり、また集団は合流して一列になって整然と歩きだしました。

ボクはあえて集団とはいっしょに渡らず、次の信号を待っていました。信号が変わるくらいの時間なら、こちら側で待っていてもこの大集団を見失うことはないと思ったからです。それに集団といっしょに急いで渡るのは少し気まずいとも思いました。

信号が変わってからボクは横断歩道を渡り、集団が向かった方向に急いで歩きました。ところがいつまでたっても集団には追いつけませんでした。ボクはあわてて横道や建物の中まで探してみたのですが、集団の姿はもうどこにもありませんでした。

あれほどの大集団が一瞬にして消えてしまったのです。この昼下がりの池袋で。

最終話:日本のゴーギャン

どこをどう探しても集団は見つからず、ボクは疲れ果てて池袋西口あたりをぶらぶら歩いていました。ふと見ると、改修工事をしている古いビルの二階に画廊カフェがあったので、ちょっと覗いてみようと思い、狭い階段を上がりました。  

カフェの中には油絵の小品がいくつか掛かっていて、ボクはビールを注文してからその絵をぼんやりと眺めていました。

その絵の作者は昭和初期にこのあたりに住んでいた洋画家で、もう亡くなっているのですが、その鮮烈な画風から、当時は「日本のゴーギャン」と呼ばれていました。しかし、今では「日本のゴーギャン」といえば奄美大島に渡った日本画家の田中一村を思い浮かべる人が多いでしょう。

いつの間にか、この洋画家のキャッチフレーズは他人のものになっていたのです。

思えば昭和の初め、この池袋西口あたりの安アパートには芸術家が多く住み、酒や色恋事に溺れながらも、いい絵さえ描けばよいのだと呪文のように繰り返し、破綻や彷徨も芸術家の宿命だと決め込み、ひたすら創造することに人生を費やしていました。そんな若い芸術家たちの愚行を見て、ある詩人は親愛の意味を込めてこのあたりを「池袋モンパルナス」と称しました。

しかし、今この街を行き来する人のうち、そのことを知っている人がどのくらいいるのでしょうか。彼らの情熱も生き様も、すでに忘れ去られた古きよき時代の一コマに過ぎなかったのでしょうか。

注文していたビールが来たので、ボクはそれを一口飲みながら思いました。

いや、そうではありません。少なくともボクは、このカフェに掛けられている絵を見ながらこの画家の生き様を想っているし、画家のこだわりや情熱を感じています。彼は間違いなく純粋に生きた証を残し、後世に伝えているのです。

ボクはまたビールを一口飲みました。

その時、ガラス窓の向こうに何者かが大人数で通っているような気配がしました。

まさかここは二階だし、カフェの前の通路は行き止まりなので、そんなはずはないと思いながらも窓の方を見てみると、窓のくもりガラスには大集団が行進しているような影が映っていました。

そして、そのうちの何人かはこちらに向かって勢いよく旗を振っていました。

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