32.恋人よ
第一話:もう何も考えられない
先週からのどが痛くて、声が出にくいなとは思っていたのですが、土曜日の段階ではまだ大丈夫のようだったので、ちょっと出かけました。
その日は電車の中が妙に暖かくて、乗るとすぐに気持ち悪くとなってきて、普段はあまり座らないのですが、ふらふらと座席にへたり込むように腰掛けました。
電車に揺られているとだんだん頭も重くなり、もう目を開けているのも苦痛になってきて、ボクは目を閉じてじっと耐えていました。
普段なら電車の中は格好の妄想の場なのですが、その日は何も考えられませんでした。
「もう何も考えられない」
ボクは頭痛に耐えながら心の中でそうつぶやきました。
そこに若い女性が一人乗りこんできてボクの隣に座りました。彼女は座るとすぐにバッグから数枚の紙切れを取り出し、その一枚をしみじみと眺め始めました。
ボクは薄目を開け、見るとはなしにその紙を見てみたのですが、それはメールをプリントアウトしたもので、タイトルには「恋人よ」とありました。
そして本文にはたった一行、「もう何も考えられない」とあったのです。
第二話:あれが失敗だったな
こちらは頭が重くて目も開けていられないというのに、隣の女性ときたら恋人からのメールをわざわざプリントアウトしてしみじみと眺めているようです。
ボクはますます頭が重くなってきて、目を閉じてじっと痛みに耐えていました。
しかし車内は蒸し暑くなっていくばかりだし、今度は胸やけがして吐き気がしてきました。
今朝、体調が悪かったので、こんな時こそ朝食をちゃんと摂らなくてはいけないと思い無理をして食べたのが悪かったようです。
「あれが失敗だったな」
ボクは吐き気に耐えながら心の中でそうつぶやきました。
隣の女性は相変わらずメールを眺めていて、今度は二枚目を取り出して眺め始めました。
ボクは見るとはなしにその二枚目のメールも見てしまったのですが、そのメールのタイトルも「恋人よ」で本文もまた一行でした。
そこには「あれが失敗だったな」と印字されていました。
第三話:もう戻れないんだ
どうやら隣の女性は恋人との仲がうまくいっていないようです。それにしても一行ずつのメールというのも、複雑な二人の関係を表しているようで気がかりでした。
といってとボクには隣の女性の恋路を心配しているような余裕はありませんでした。頭は重いわ、胸はむかむかするわで、深く物事を考えられるような状態ではなかったのです。
思えば、朝から体調が悪かったのだから、いくら大事な用事があるからといって、無理はせずに家で寝ていればよかったのです。早いうちに電話をしていれば、こんなに声がかすれているのだから、相手も心配して約束を延期してくれたに違いありません。
しかし約束の時間も迫ってきたし、もう先方もそれなりに準備しているだろうし、今さら行けなくなったと連絡するのも気が引けました。
「もう戻れないんだ」
ボクは後悔しながら心の中でそうつぶやきました。するとそれと同時に隣の女性も三枚目のメールを取り出しました。
またまた見るとはなしに見てしまったのですが、三枚目のメールにもタイトルは「恋人よ」と印字してあり、本文は一行だけでした。
そして大方の予想通り、そこには「もう戻れないんだ」と印字してありました。
第四話:言葉にならない
さすがに三通続いて、ボクが心の中でつぶやいたセリフとメールの本文が同じでは、このままほっとくわけにはいかないと思いました。
このままボクがネガティブな考えに終始していると、今後の二人の関係に悪い影響を及ぼしそうです。
ボクは精一杯明るい未来を考えることにしました。
たとえば、これからボクが会いに行く人は小さいけれども堅実な会社を経営している社長さんで、病を押して約束を果たしに来たボクに感動し、「私の会社をもらってくれ」と言うかもしれません。社長さんには年頃の美しい娘さんがいて、ボクの誠実な態度に感動し、「なんて誠実な人なの、あなたのために歌を歌うわ」と言いながらピアノの弾き語りを始めるでしょう。最後にはこのへん一帯の土地を持っているおじいさんが登場し、「ここの土地は全部君のものだ、孫もよろしく」と叫ぶに違いありません。
ボクはそんなポジティブな考えを言葉にしようと探しました。しかしあまりにもラッキーすぎて言葉にならないので、思わず心の中でつぶやきました。
「言葉にならない」
そう思ってハッとしました。この言葉ではポジティブシンキングを表現できていません。
その時、隣の女性は四枚目のメールを取り出しました。
そこにはやはり「言葉にならない」と印字してありました。
最終話:恋はサドンデス
四通目のメールを眺めている隣の女性の表情は冷静でした。メールをプリントアウトするくらいですから何度か見ているのかもしれませんが、それほど悲観的な様子ではありませんでした。
ボクは今度こそ明るい言葉を思い浮かべようと思って懸命に努力しました。
しかし事態は電車が次の駅に止まった時、急展開したのです。
電車が止まりドアが開いた瞬間、隣の女性は眺めていたメールの束を思い切りよく二つに破り裂き、それを両手で丸めて勢いよくバッグの中に放り込むと、すっくと立ち上がり足早に電車を降りていったのです。
彼女が降りるとすぐにドアが閉まり電車は発車しました。
ボクは唖然としてその様子を見ていました。今まさに一つの恋が終わったようです。一見彼女の表情が冷静に見えたのは、すでに心の整理ができていたからなのでしょう。
それにしても彼女の恋人というのはどんな男なのかでしょうか。一体全体どんな愚かなことを書けばあんなに女性を激怒させることができるのでしょうか。
ボクは男が出した五通目のメールの内容を考えてみました。しかしまったく思いつきませんでした。まあ、そりゃあそうです。そんなに愚かなことをそう簡単に思いつくわけがありませんから。
それにボクはそんなことを考えているような状況ではなかったのです。彼女が降りた駅はボクも降りなければいけない駅でした。しかしどうしてもこれから人に会う気がしなくて、そのまま乗り過ごしてしまったのです。ボクは心の中でつぶやきました。
「このまま誰にも会わず働きもせずダラダラと暮らしたいな」
そう思ってやっと気づきました。
おそらく彼女が受け取った五通目のメールにもそう書かれていたのでしょう。