湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


31.甘いもの横丁

第一話:同じ釜の飯を食った仲

街を歩いていて知り合いにバッタリ出会ったら、まず「やあ、どうもどうも」と適当にあいさつして、その後「ここじゃあなんだから、ちょっと飲みにいこうかあ」と飲み屋に誘います。相手が迷っていると「一杯だけだから、一杯だけね」と念を押しながら強引に連れていき、結局ハシゴ酒をして翌朝後悔する、というのがお決まりのコースです。

今までの人生を振り返ってみても、これ以外の方法は考えられません。この展開こそが街で知り合いに会った時の定番であり、王道なのです。ボクはもうかれこれ何十年もこれを守り続けてきました。そう、学生時代からずっと…。


さて先日のことです。新宿の裏通りを歩いていた時、学生時代の先輩にバッタリ出会いました。

先輩といっても学校ではなくバイト先の先輩なのですが、学生時代は毎日のようにいっしょに飲んでいました。当時は学校にいるよりもバイト先にいるほうが長かったので、彼とはいつもいっしょで、同じ仕事をして同じ物を食べ同じ物を飲んでいました。まさに「同じ釜の飯を食った仲」なのです。

それにしても、こんな裏通りで二十数年ぶりに会うなんて、ボクはビックリして言葉も出なかったのですが、その先輩ときたらまったく驚いた素振りもなく、「やあ、どうもどうも」と適当にあいさつすると、「ここじゃあなんだから、ちょっと飲みにいこうかあ」と自然にボクを誘ってきたのです。

ボクは感動しました。熱いものがこみ上げてくるとはこういうことを言うのでしょう。二十数年も会っていないというのに、先輩の「街で知り合いに会った時の対処法」がボクとまったく同じだったのです。さすがに「同じ釜の飯を食った仲」です。

ボクは今日はトコトン飲もうと決意して、誘われるままに古びた飲み屋街に入っていきました。

第二話:闇に揺れる洗濯物

先輩が入っていったのは、昔ながらの飲み屋横丁といった風情の路地裏で、古びた飲み屋が数軒並んでいました。

一口に古びた飲み屋といってもいろいろあるわけでして、レトロ趣味のギャルが喜びそうな小奇麗な「古びた」もあるのでしょうが、この軒並みは、「古びた」と言うよりも荒んでいるといったほうが合っていて、店の前に転がっている小さな椅子も、土が乾き切ってしまった植木鉢も、無関心に放置されて朽ち果てているといった具合でした。

それに、どの店ののれんもボロボロで原型をとどめておらず、ある店の提灯は破れたままになっていました。まるで飲み屋街全体がお化け屋敷のセットのようで、とてもレトロなんて軽々しく言えるようなものではありませんでした。

飲み屋の二階は住居になっているらしく、洗濯物が干してあるところもありました。この荒みきった裏通りで、干しっぱなしの洗濯物が夜の闇の中を力なく揺れる様は、なにか怨念が乗り移っているとしか思えませんでした。
          
古い飲み屋街には馴れているはずのボクも、この光景には圧倒されてしまい、呆然と立ち尽くしていたのですが、先輩は脇目もふらずにどんどん歩いていき、飲み屋街の中ほどにある店に入っていきました。

ボクも慌てて先輩を追いかけその店に入ったのですが、入ってすぐに何か不思議な感覚に襲われました。

その店は造りは古びた飲み屋そのものだったのですが、入った瞬間甘い香りがしました。

それはドーナツ屋の匂いそのものだったのです。

第三話:甘い香りの正体

その店はカウンターだけの狭い店で、カウンターの中には古びた店にふさわしい無愛想な年配の女性がいて、ボクたちが入っていくと面倒くさそうにちょっと顔を上げました。

ボクは店内を見渡したのですが、見た目は普通の飲み屋で、他にお客さんはいなかったので客層は分からなかったのですが、棚にはウイスキーのボトルも置いてあるし、どう見てもドーナツ屋には見えませんでした。

しかし甘い香りは相変わらず漂っていました。

先輩は座ってすぐにビールを注文し、カウンターの女性は返事もせずにちょっとうなずいて、奥からビールとグラスを持ってきました。

先輩はビールとグラスを女性から直接受け取ると、すばやくボクの前にグラスを置いて「まあまあ」と言いながらビ-ルをつぎはじめ、ボクは慌てて「あ、どうもどうも」と言いながらグラスに手を添えました。

すべてが当時のままでした。あの頃も始まりはいつもこんな感じでした。といってもだいたいの飲み屋ではこんな感じでしょうけど。

ボクがしみじみと昔を懐かしんでいると、カウンターの女性がお通しを持ってきました。ビールのおつまみということでしょう。ボクはそれを見て、いやその香りをかいで、やっと探し物にたどり着けたような気がしました。

目の前に出された小さな皿には、はみ出さんばかりに「フレンチクルーラー」が乗っていました。

店内に漂う甘い香りの正体は、この巨大な「フレンチクルーラー」だったようです。

ボクはそれほど驚きもせず、その甘い香りの正体をまじまじと見つめました。

第四話:鮮烈な経験

目の前のフレンチクルーラーを見ていると、初めて食べた時の衝撃が蘇ってきました。

あれはちょうどボクが先輩とバイトをしていた時のことで、バイトの帰りに食べたフレンチクルーラーがあまりにもおいしかったので、次の日の朝すぐに先輩に報告しました。しかし、根っからの酒飲みの先輩は、気のない返事をするだけで何の興味も示してくれませんでした。あれから二十数年が経って、こうして先輩と再会し、目の前にフレンチクルーラーがあるということは単なる偶然とは思えませんでした。

先輩は相変わらずフレンチクルーラーには興味を示さず、手酌でビールをあおっていて、もうすでに数本のビールビンを空にしていました。当時と同じ見事な飲みっぷりでしたが、やはり体力は若い頃のようにはいかないようで、もう酔いつぶれる寸前でした。

思えばあれから二十数年が過ぎ、もう先輩もボクもあの頃のようにはいかないのです。

だから今ボクがこのフレンチクルーラーを食べたとしても、当時のような感動は味わえないでしょう。過去の記憶というものは長い年月の間に美化されるものだから、あの感動を望めば望むほど、結果として失望するしかないのです。

しかしこうして目の前にフレンチクルーラーがある以上、踏み込まないわけにはいきません。ボクはこれで思い出を一つ失ってしまうかもしれないと覚悟して、フレンチクルーラーを一口食べてみました。

ところがどうしたことでしょう。驚くべきことに一口食べた時の口の中に広がる甘い香りは、初めて食べた時をはるかに越えて鮮烈だったのです。その甘さも香りも口の中で複雑に広がり、それはいまだかつて経験したことのないような衝撃でした。

なんとフレンチクルーラーは、この数十年の間、時代の流れに遅れることなく着実に進化を遂げていたのです。

ボクの中で何が音をたてたような気がしました。

最終話:純化する心

ボクはもう一口フレンチクルーラーをほおばりました。口の中には複雑に絡んだいくつもの甘さが広がり、その鮮烈な甘さがボクの心を裸にしました。

「ああ、なんておいしいんだ」

ボクは感情のおもむくままに、声に出して叫びました。

そして夢中になって残りを食べ尽くすと、飢えた野獣のようにあたりを見渡し、すでに酔いつぶれていた先輩のフレンチクルーラーを奪い取り、すぐにかぶりつきました。口の中には甘い香りがいっぱいに広がり、その鮮烈な甘さが一瞬ボクを我に返しました。

「ああ、フレンチクルーラーよ、君はなんて罪作りなんだ。ボクは愛する先輩から君を奪ってしまったよ。これは裏切りなのか。それとも情熱なのか」

しかしすぐに我慢できなくなり、また野獣と化して一口食べ、口の中に甘い香りが広がるとまた我に返り、力強く叫びました。

「ああ、フレンチクルーラーよ、もっとボクを苦しめるがいい。君はもう美しいだけの思い出ではないのだ。気高くも厳しいボクの未来なのだ」

そんなことを叫びながらも、結局三口でフレンチクルーラーを食べてしまったボクは、またまた飢えた野獣と化して店内を物色しました。

店内を見渡しているとカウンターの女性と目が合いました。今まであれほど無愛想だった彼女はボクと目が合うと、まるで女神のように微笑み、「にぎやかな人だねえ」と言いながらフレンチクルーラーをひとつボクのほうに投げてよこしました。

ボクはそれを受け取ろうと手を伸ばしたのですが、バランスを崩し椅子に座ったまま後ろに倒れてしまいました。

床で大の字になって倒れているボクに、いつ起きたのか先輩が「よ、ブラボー」と嬉しそうに叫び、その声を遠ざかる意識の中で聞いていたボクはぼんやりと思い出しました。確か二十数年前もボクはフレンチクルーラーを食べながら同じことをしていたような気がします。それも毎晩…。

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