湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


30.ひとりごと酒場・冬の終わり

第一話:久々のひとりごと酒場

冬の間、現実から逃避していたせいか、「ひとりごと酒場」に足が遠のいていました。

「ひとりごと酒場」はボクがたまに行く一杯飲み屋で、お客さんはたいてい一人で来ていて、ブツブツとひとりごとを言いながら飲んでいます。そんなことから、誰が言うともなく「ひとりごと酒場」と呼ばれるようになったのです。

最後に行ったのは秋の初めくらいだったので、ずいぶん長いことご無沙汰していたことになります。飲み屋というのは行くときは毎日のように行くのですが、ちょっと間が空くとこんなものです。

それに前回行った時にママが変わっていたので、次に行った時にその新しいママがボクのことを覚えていなかったら深く傷つくだろうし、新しいママは以前いたおばちゃんとは違い社交的なので、店自体が「ひとりごと酒場」ではなくなっている恐れもあるのです。そんなこんなで自然に足が遠のいてしまっていました。

先日、店の前を通った時、中をのぞいてみると、カウンターの隅にお客さんが一人いるだけで以前と変わらない雰囲気のようだったので、久しぶりに入ってみました。

入るとすぐにママが、「あら、どうしたの、ずいぶんご無沙汰じゃないの」と親しげに笑いながら迎えてくれました。ちゃんとボクのことを覚えているような口ぶりでした。

しかしここで油断してはいけません。こんなセリフは信用できません。お客さんみんなに言っている可能性があるのです。こう言われたお客さんが「きのう来たばっかりだよ」と反論しても、ママは「一日も会えなくてさびしかったのよ」とかなんとか言って誤魔化すに決まっています。

ボクは鋭いことを言ってママを試してやろうと思い声を掛けようとしたのですが、ママは「ビールでいいわよね」と言い残すと、返事も聞かずにさっさと厨房に入ってしまいました。

第二話:偏屈否定男

すぐにママは厨房から出てきて、ボクの前にグラスと小鉢を置き、ビールをつぎながら「この煮物おいしいのよ、なんたって徹夜で作ったんだから」と煮物の入った小鉢に軽く手を添え、ボクのほうに押しやってきました。

ボクにはその煮物がおいしいかどうかより、ママの「徹夜で」という言い回しが気になりました。もちろん本当に徹夜したわけではなく、一生懸命がんばったという意味なのでしょうが、表現が古臭すぎます。いまどきの会話としては無理があります。

これはツッコミどころだと思い、「ちょっとくらい寝たんじゃないの」と突っ込もうとしたのですが、それよりも早く奥の方から「うそだ」という場違いなほど大きな声がしました。ボクは驚いて声の主を見たのですが、その声の主はすぐに声色を変えて、今度は小さな声で「ピンポーン」と付け加えたのでした。

声の主と言っても、それは奥にいるお客さん以外にはいないのですが、あまりの無粋な言葉にボクはマジマジとその男を観察しました。

その男は、浅黒い肌に白髪交じりの角刈りで、いかにも気難しくて偏屈な江戸職人という風体でした。きっとどんなことも否定する「偏屈否定男」なのでしょう。

それにしても「徹夜で」と言う方も言う方ですが、それを頭ごなしに「うそだ」と叫ぶ方もどうかしています。おまけに「ピンポーン」と付け加えては、もう修復不可能です。

ボクは黙ってビールを飲みながら、小鉢をつつき、この台無しな連中をどうしてくれようかと途方に暮れていました。

そこに間の悪いことに場の空気を読めないママが、うつむき加減のボクの顔をのぞきこむように、「ねえ、どう」としつこく聞いてきたのです。

第三話:反対の反対なのだ

ママに「どう」と聞かれても答えようがありません。おそらくママは煮物の味はどうかと聞いているのでしょうが、「偏屈否定男」がいる限り、何を言っても「うそだ」と叫ぶに決まっています。おまけにまた「ピンポーン」と付け加えるでしょう。それを考えると気が重くなって、何も言いたくありませんでした。

なのにママはしつこく「ねえ、どう」と聞いてくるので、ボクはしょうがなく無難な答えを探すことにしました。

否定男はボクが何を言っても否定してくるでしょうから、否定してもいいような答えが必要です。

ボクはすこし考えて、「この煮物、本当はママが作ったんじゃなくて、デパートで買ってきたんじゃないの」と意地悪く言ってみました。

こう言っておけば、否定男が「うそだ」と言っても、それは「デパートで買ってきたこと」を否定することになり、ママの手作りを認めることになります。仮に否定男が黙っていたとしても、ママは「そんなにおいしいの? ほんとうに私が作ったのよ」とかなんとか言いながら満更でもない顔をするに違いありません。

ボクは我ながら見事な回答だと思いました。

否定男はどう言えばいいのか迷ったようで、ちょっと間があったのですが、結局「うそだ」と叫びました。やはりこの男は「うそだ」としか言わないようです。ボクは内心ほっとしました。ここで「ほんとうだ」と叫ばれたら展開が変わります。

ボクは安心してビールを飲もうとしたのですが、男は思っても見なかった言葉を付け加えました。

男は「うそだ」と叫んだ後、さっきのように声色を替えて、今度は「ピンポーン」ではなく「ブー」と付け加えたのです。

第四話:否定男立ち上がる

偏屈否定男の見事な複合技にボクは愕然としました。

彼は、さっき「うそだ」と叫んだ後に「ピンポーン」と付けくわえました。これは「うそだ」が正解だということなのでしょう。そして今度は「うそだ」の後に「ブー」と付け加えました。もちろんこの「ブー」は不正解を意味します。つまり最初の「うそだ」は正解で、今度の「うそだ」は不正解だということです。

この否定男は常に「うそだ」と否定はするのですが、それは単純な否定ではなく、次に続く「ピンポーン」か「ブー」で、「うそだ」という言葉に隠された本心を表現しているのです。

ボクは感心しました。ここまでこだわって否定する人を見たことがありません。まさに偏屈否定男です。

しかし、次の彼の行動はさらにボクを驚かせました。

彼は「ブー」と言ったあと丁寧にクツを脱ぐと椅子の上に立ち上がったのです。

おそらく自分で「ブー」と言った以上、不正解の責任を取って、罰として椅子の上に立っているのでしょうが、そばに座っているものとしては目障りでしょうがありません。

ママは相変わらずこの状況が目に入らないかのように自然に振舞っているし、ボクはこの窮地からどう脱出すべきか考えてみたのですが、なかなかいいアイデアは出てきませんでした。

ボクが途方に暮れていると、ママは何か重大なことに気づいたようで、「あっ」と言い残すと急いで厨房に入っていきました。

とうとうママはいなくなるし、否定男は椅子の上に立ったままだし、ボクはさらに途方に暮れてビールをちょっと口にしました。

最終話:春の始まり

ママはすぐに厨房から戻ってきました。手には大きな器を持っていて、中には煮物が上品に盛り付けられていました。

ママはその器をボクに見せながら「この器は、あそこに立っているお客さんが作ったのよ」とごく自然に説明しました。

椅子の上に立っている偏屈否定男を、すんなりと「あそこに立っているお客さん」と称するあたり、ボクはこの二人のただならぬ関係を察しました。年月を経てにじみ出る男女の機微というか、絶妙な距離感を感じ、爽やかな春の風を受けたような気がしました。

ボクが「いい器ですねえ」と言うと、ママは嬉しそうに「毎年冬の終わりにはこの器を出すのよ、冬の終わりはすぐに分かるわ、いま冬が終わったのよ、もう春ね」と笑い、いとおしそうに器をなでました。

ママとボクの会話を聞いていた偏屈否定男は、また「うそだ」と叫びました。そしてちょっと照れくさそうに小さな声で「ブー」と付け加えると、今度はカウンターの上にあがりました。

これで、とてつもなく不思議な光景になってしまいました。分別盛りの初老の男はカウンターの上に立っているし、同じ年頃のママは器を撫でながら、まるで少女のように物思いにふけっています。

ボクは二人の様子を見ながら、ママは本当に徹夜で煮物を作ったのかもしれないと思いました。この器のために。このカウンターの上に立っている男のために。そして、春を迎えるために。

ボクはその考えを心の中で「うそだ」と否定し、すぐに「ブー」と付けくわえると、二人に気づかれないようにクツを脱ぎました。

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