湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


26.約束

第一話:小さな雪だるま

先日は東京にも大雪が降って、ボクも朝起きて雪が積もっていたので驚いたのですが、その日は土曜日だったので、いつも通り画廊を見て歩くため銀座に向かいました。久しぶりに雪が積もったので、どうしても歩いてみたいという気持ちもありました。

雪は午後になっても止む気配はなく、銀座は人通りが少なく、表通りは比較的歩きやすかったのですが、裏通りには雪が深く積もっていました。

ボクは銀座8丁目から1丁目のほうに向かってできるだけ表通りを歩いていたのですが、5丁目からは裏通りに入りました。裏通りは雪が積もっていて歩きにくかったのですが、5丁目から4丁目に向かう横断歩道を渡るよりは、雪を避けて裏通りから入る地下道を渡ろうと思ったからです。

その地下道は普段はあまり通らないのですが、なかなかのすぐれもので、地下道なのに中には映画館が3つあって、映画館の向かいには一杯飲み屋が数軒並んでいます。飲み屋はどれもこれも味のあるオヤジ好みの造りで、時の流れを拒絶しているかのようにひなびた雰囲気をかもし出しています。

その日は地下道に続く階段にも雪が降り込んでいて、階段の脇には小さな雪だるまが置いてありました。雪だるまにはちゃんと目も鼻も口も揃っていて、蝶ネクタイまでしていました。きっと久しぶりの大雪に誰かが童心に返って作ったのでしょう。どこか懐かしい香りがしました。

うちの田舎は九州なので、雪が積もることはほとんどなく、本格的に雪が積もったのは確かボクが小学校の低学年の頃だったと記憶しています。友達とはいつも「雪が積もったら雪だるまを作ろうね」と約束していました。

ボクはそんなことを思い出しながら、雪だるまの横を通って階段を下りていきました。

いま思えば、この雪だるまこそが、あの奇妙な世界への案内人だったのです。

第二話:三丁目の夕日

雪のせいか地下道は人通りがなく、映画館が3つもあるとは思えないような静けさでした。ボクは映画の上映時間を見たり、飲み屋をのぞいたりしながら歩いていたのですが、ある映画のポスターの前で立ち止まりました。それは「三丁目の夕日」のポスターで、3枚並べて貼ってありました。

「三丁目の夕日」はコミック雑誌で時々読むのですが、昭和30年代を描いたもので、その時代はボクがやっと小学生になったくらいで、団塊の世代が若者だった頃です。古きよき時代といったところでしょうか。

団塊の世代といえば、ボクらにとっては年の離れた兄や姉といった世代で、いわば「永遠の大人」のような存在です。しかしよくよく考えてみれば、団塊の世代が「永遠の大人」なのではなく、ボクたちがいつまでたっても子供のままなのかも知れません。

そんなことを思いながら「三丁目の夕日」のポスターを眺めていました。

ふと気配を感じ横を見ると、ボクと並んでポスターを眺めている女性がいることに気づきました。いつ頃からそこにいたのか、まったく気づかなかったのですが、彼女は懐かしそうにポスターを眺めていました。

ボクはその横顔を見てすぐに彼女が団塊の世代だということがわかりました。彼女の包み込むような雰囲気は、紛れもなくボクたちが小学生の頃の、あのやさしかった「年の離れたお姉さん」そのものだったからです。

しばらく二人で並んでポスターを眺めていました。

どのくらい時間がたったでしょうか、彼女がふと「ごめんね、湯上がりさん」とつぶやきました。彼女はポスターを見つめたままだったので、その言葉がボクに向けられたものなのか、彼女の独り言なのかはわかりませんでしたが、そのやさしくて悲しい響きは、ボクの心の奥底までしみ込んでいくようでした。

その言葉がきっかけで、ボクの心の中で何かが動き始めたのです。

第三話:蘇る記憶

彼女が言った「湯上がりさん」という言葉には聞き覚えがありました。かなり以前のことですが、ボクは確かにそう呼ばれたことがあります。

しかし、いつどこで誰に呼ばれたのかはまったく思い出せず、無理に思い出そうとすると、その先に濃い霧のようなものがかかり、頭が割れるように痛くなりました。まるで自分自身で過去を拒絶しているかのようでした。

思い出せないもどかしさからボクは両手で顔を覆い、いつもやるように指先で目のあたりを押さえようとしたのですが、手の感触が普段と違うことに気づきました。手が氷のように冷たく腫れているように感じたのです。恐る恐る両手を広げてみると、やはりボクの両手は手の平から指先まで真っ赤に腫れ上がっていました。

しばらくその状況が把握できず、真っ赤に腫れた自分の両手を見ながら呆然としていたのですが、隣の女性がこちらを向いたような気配がしたので、ボクも何気なく横を向き、その時やっと彼女が誰であるのかがわかりました。

その瞬間、まるで心の堰が壊れたかのように過去のことが思い出されてきました。目の前を覆っていた濃い霧は一瞬にして消え、あの日の出来事が鮮明に蘇ってきてボクを直撃しました。それと同時に激しい頭痛も襲ってきて、あまりの激痛にボクは立っていられず、その場に座り込んでしまったのです。

しゃがみ込んで頭痛に耐えていたのですが、やっとの思いで彼女を見上げると、彼女は悲しそうにボクを見つめていました。そしてボクと目が合うと「ごめんね、湯上がりさん」と言い、少し笑い、そして泣きました。

ボクはもうすべてを思い出していました。彼女とボクの関係も、彼女が言っている「湯上がりさん」の意味も、そしてあの日もボクはこんなふうに両手を真っ赤に腫らしていたことも…。

第四話:約束

それは昭和30年代後半のことでした。

その日も今日のような大雪で、小学生だったボクは朝起きて雪が積もっていたので、急いで友達のうちに行きました。その友達とはいつも「雪が積もったら雪だるまを作ろうね」と約束していたからです。

ところがボクが友達のうちに行っても友達はいなくて、いつもと違う雰囲気でした。いつもやさしい友達のお姉さんは泣いていて、「もうあの子はいないのよ」と言ってまた泣きました。

ボクは悲しくなって友達のうちを飛び出して、泣きながら雪だるまを作りました。それを友達のおねえさんはずっと見守っていてくれたのです。ボクは友達との約束どおりに、小さな雪だるまを作りました。ちゃんと目も鼻も口も入れたカッコいいヤツを。それにお姉さんが蝶ネクタイをしてくれました。いつも友達がしていたハイカラなヤツを。

ボクは夢中になって雪だるまを作っていたので、顔は汗と涙でグチャグチャで、それが蒸発して湯気が出ていたようで、お姉さんはお風呂上がりみたいねって言ってちょっと笑い、「ごめんね、湯上がりさん」と言って、泣いたのです。

あの日の出来事が鮮明に浮かんできました。どうして今まで忘れてしまっていたのか不思議なくらい鮮やかに思い出しました。あまりにも辛い出来事だったので、いつの間にかどこか心の奥にしまい込んでいたのかもしれません。

ボクは赤く腫れた両手を見ながら思いました。おそらく入り口の階段にある雪だるまを作ったのはボクでしょう。無意識のうちにボクが作ったのです。だって今日は雪が積もったから。雪が積もったら雪だるまを作るのは友達との約束だから。

最終話:天まで昇れ

ボクは地下道を抜け、外に出ました。すべてを思い出した時、もう友達のお姉さんの姿はありませんでした。

外は相変わらず雪が降っていて、あたりは暗くなっていました。地下道にいたのは一瞬だったような気もしますが、ずいぶん時間がたっていたようです。

ボクはカサも差さずに数歩外に出てから、空を見上げました。真っ暗な空からは白い雪が湧き出るように降っていました。

ふわふわと降り注ぐ雪を全身で受け止めながら、ボクは友達のことを思い出していました。友達は「雪が降ったら雪だるまを作ろうね」とボクと約束すると、決まって「雪国の人は雪が降ってもカサなんて差さないんだよ」と自慢げに言っていました。それが本当なのかどうなのかはわかりませんが、彼がそれを実現できなかったことだけは確かです。

おそらくボクは雪が降るたびに友達との約束を守るため、無意識のうちに雪だるまを作っていたのでしょう。カサも差さずに雪国の人みたいに。

しかし思い返してみてもその記憶はありません。あれから何度も雪が積もったはずなのに、その日の記憶がまったくありません。それを見かねた友達のお姉さんが会いにきてくれたのでしょうか。

雪はいっそう激しさを増し、ボクを埋め尽くすかのように降り注いできました。それを全身で受け止めながら見上げていると、すべての雪が自分に降り注いでいるような気がしてきました。

やがて、雪が降っているのか、自分が天に昇っているのかわからなくなりました。

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