湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


25.拍手の町

第一話:ついに再開

もう一月も下旬になってしまったので、今さら年末年始の出来事をお話しするのも気が引けるのですが、あの出来事だけはどうしてもお話しして置かなくてはならないでしょうから、どうかしばらくお付き合いください。

話の始まりは昨年の大晦日に遡ります。ボクは毎年、年末年始には実家のある大分に戻っているのですが、今回は事のほか面倒くさくて、このまま逃避してしまおうかとも考えていたのですが、やっとの思いで踏みとどまり、夕方になって大分行きの飛行機に乗り込みました。

東京から大分まで飛行機で一時間半くらいなのですが、大分空港から市街地までが遠くて、ここからホバークラフトかバスに乗り継がなくてはなりません。しかしその日は風が強くて別府湾を横切るホバークラフトが運休していました。

ホバークラフトの詳しい構造はよく分からないのですが、船とは違って下の部分から空気を噴出して海面から浮いた状態で進むようになっているらしく、風や波に弱くてよく欠航しています。

頼みのホバークラフトが運休なのでバスで行くしかないのですが、バスはホバークラフトに比べて倍くらい時間がかかります。普段の日ならともかく、グズグズしていると年が明けてしまいます。ボクは大急ぎでバスに乗り込むと、時間を気にしながら真っ暗な別府湾をひたすら眺めていました。一年ぶりに見る別府湾はボクの心を映しているかのように暗く沈み、時折高い波が立っては砕けていました。

年の暮れはこんな感じでした。それからボクは無事実家にたどり着き、「やっぱりウチが一番だな」とか調子のいいことを言いながら酔っ払っていました。

もちろんこれで話が終わるわけではありません。
そう、あの驚くべき出来事は年が明けてから起こったのです。

第二話:スーパー大人買い

実家にたどり着いてひとしきり調子のいいことを言いながら酔っ払ってからは、これといってすることもないので、甥が買い集めていたコミックマンガをダラダラと読み、そのまま新年を迎え、それでもひたすら読み続け、一歩も外に出ないまま正月休みを終えました。カバンの中に忍ばせておいたパソコンも使わずじまいでした。

正月休みも終わりだし、東京に戻らなくてはいけないので、ボクは鈍り切った体を引きずりながら大分駅に向かいました。駅に着いて空港行きのバスの発車時刻を調べてみるとまだ時間があったので、そばの売店でスポーツ新聞を買うことにしました。年末年始はずっとマンガを読みふけっていたので、大晦日の格闘技の勝敗も、紅白歌合戦の結果も知りません。久しぶりに街に出て人の波のなかに入ると、そんな情報が妙に恋しくなってくるものです。

ボクは売店に行くと、数種類のスポーツ新聞を一部ずつ抜き取って売店の女の子にその束を見せながらポケットの小銭を探しました。しばらく小銭を探しながら女の子の反応を待っていたのですが、いつまでたっても彼女は何も言ってこないので、どうしたことかと顔を上げてみると、彼女は潤んだ瞳でボクをじっと見つめていました。

その表情は紛れもなく恋する乙女のもので、彼女はボクと目が合うと爽やかに微笑み、「すごぉい」と言いながら胸の前で小さく拍手したのでした。

彼女の意外な反応にボクは少し戸惑ったのですが、考えてみれば思い当たるフシもあります。おそらく彼女はボクの荒々しくも知的な、新聞の「スーパー大人買い」にハートを奪われたのでしょう。若い女性というものはこんなことにも心奪われがちです。

「大人買い」というのは、子供の頃ひとつしか買えなかった駄菓子を大人になってから経済力にものを言わせてまとめ買いすることですが、スポーツ新聞はもともと大人が買うものですから、それを「大人買い」するということは、一ランク上の「スーパー大人買い」ということになります。彼女が心奪われるのも無理はありません。

ボクは恋する乙女の熱い視線を背中に感じながら売店をあとにしました。九州といえどもその日は寒風が吹き荒れていたのですが、まったく寒さは感じませんでした。スポーツ新聞の束を抱えたヒーローのハートは熱く燃えていたのです。

第三話:500円玉空中つかみ取り

バス乗り場には他に誰もいなくて、寒風が吹きつけるベンチでボクはひとりバスを待っていました。そのバス乗り場にはキップ販売機などはなくて、バスが直前に迫ってきてからどこからともなくキップ売りの人が現れてキップを売ってくれます。毎年そうですから。

しばらくして空港行きのバスが見えてくると、予想通りキップ売りの女性が現れました。その中年の女性は「ごめんなさいね」と言うと、大あわてでキップの束から空港行きを一枚切り取り、「1500円です」と言いながら差し出しました。ボクも大あわてでそれを受け取って、用意していた千円札と500円玉を渡そうとしたのですが、二人とも大あわてだったのでタイミングが合わず、500円玉が跳ねて彼女の手からこぼれてしまいました。

ボクはまたまた大あわてで持っていたバッグを放り出し、飛び跳ねた500円玉に手を伸ばしました。手を伸ばしたといっても、うまくキャッチできるとは思ってもみなかったのですが、なんという偶然か伸ばした手の中にスッポリ500円玉が入ってきました。

ボクは「500円玉空中つかみ取り」の成功にちょっと興奮し、小さくガッツポーズをとりながら彼女のほうを見たのですが、彼女はボクが放り出したバッグのほうに目を奪われていました。なんたってバッグが地面に落ちる時、ガシャンというかなり悲惨な音がしていましたから。

おそらくバッグの中に忍ばせておいたパソコンが壊れたのでしょうが、ボクはそんなことなんてお構いなしに、誇らしげに彼女に500円玉を渡しました。彼女は500円玉を受け取ると、申し訳なさそうにそれを見つめていたのですが、やがて思い切ったように顔を上げました。

彼女の顔は輝いているように見えました。何かを決意したようにボクを見上げるその表情は、紛れもなく恋する女性のものでした。そして彼女もまた売店の女の子と同じように「すごぉい」と言うと胸の前で小さく拍手したのでした。

彼女の意外な反応にボクは少し戸惑ったのですが、考えてみれば思い当たるフシもあります。おそらく彼女はボクの見事な「空中500円玉つかみ取り」に感動したというよりも、バッグの中のものを犠牲にしてまで、彼女のために500円玉をキャッチしたことにハートを奪われたのでしょう。彼女は40歳代に見えますが、こんな人生経験豊富な女性は、自分が持っている価値観を壊すような純粋な行為に時として心奪われるものです。

ボクは彼女の熱い視線に見送られながらバスに乗り込みました。ヒーローらしく胸をはって。

第四話:最後部座席まっしぐら

バスに乗り込むと、ボクは脇目もふらずに通路を足早に歩きました。バスは空いていて数人が前方の座席に座っている程度でしたが、迷わず最後部の座席を目指しました。

一番後の少し高くなっている座席に陣取ると、ボクは小さな拍手をしてくれた二人の女性のことを思い出しました。拍手というものがこんなにも表現力があって、人の心を高揚させるものなのかとつくづく思い知らされ、感慨にふけっていました。

もちろん拍手するのがこの土地の風習ということではありません。生まれ故郷だから断言できますが、そんな習慣はありません。ボク自身こんな「小さな拍手」をされたのは初めてのことなのですから。

そんなことを考えながらふと前方の座席を見ると、70歳くらいの年配の女性が振り返ってボクのほうを見ているのに気づきました。彼女はボクと目が合うとちょっと微笑み、小さく拍手しました。声は聞こえませんでしたが「すごぉい」と言っているようでした。

ボクは少し戸惑ったのですが、考えてみれば思い当たるフシもあります。おそらくこの年配の女性は、バスに乗ってから脇目もふらずに「後部座席まっしぐら」に歩いたボクの姿に、ひたむきな生き様を見たのでしょう。もちろん彼女ほどの人生の大先輩が、これくらいのことで小さな拍手をしてくれるとは思えません。

きっと彼女は今までのボクの行動の一部始終を見ていたのでしょう。売店での「スーパー大人買い」、バス乗り場での「500円玉空中つかみ取り」、そしてバスの中での「後部座席まっしぐら」、それに対する総合評価なのです。人生の大先輩は常に冷静な判断をするものです。

ボクはバスの窓から別府湾を眺めながら考えました。かつてこれほど罪な男がいたでしょうか。若者からお年寄りまで小さな拍手され放題です。ボクは彼女たちの小さな拍手に答えるべく新年に向けての決意を新たにしました。まさに身が引き締まる思いで…。

別府湾は夕日を浴びてキラキラと輝いていました。この別府湾の向こうには豊後水道が流れていて、その海域に住んでいる関サバ、関アジは、身が引き締まっていておいしいと評判です。

最終話:鳴り止まない拍手

飛行機に乗ってからもボクは小さな拍手のことを考えていました。彼女たちの小さな拍手がボクにどれほどの勇気を与えてくれたか計り知れません。ボクは彼女たちの顔を一人ひとり思い浮かべながら「ありがとう」と心の中でつぶやきました。何度も何度も繰り返して、何度も何度も繰り返して…。


いつの間にか眠ってしまったようで、ガツンという衝撃で目が覚めました。見ると前方のスクリーンに飛行機の前輪が着地した瞬間が映っていました。どうやら飛行機は無事に着地したようです。ボクは思わず小さな拍手をしました。眠りながら小さな拍手のことばかり考えていたので、つい出てしまったようです。

ちょっと気まずいのですぐに止めようとしたのですが、隣の人も寝ぼけていたらしく、ボクの拍手につられて拍手を始めました。それがまた隣の人に伝染して、その前の人にも伝わり、そして後の人にも。

やがて機内は大きな拍手に包まれました。見渡すと乗客たちの誰もが高揚した顔で力いっぱい手を叩いていました。乗客たちだけでありません。客室乗務員の女性たちもみんな拍手をしていました。乗客たちは口々に「ありがとう」と言い、客室乗務員の女性たちも満面の笑みで答えていました。もう打ち上げのような大騒ぎです。

その騒ぎにつられてか、前方から制服姿のりりしい男性が現れました。彼は乗客たちの前に立つと、誇らしげに帽子を取り挨拶しました。その責任感に満ちた表情といい、落ち着いた物腰といい、彼がこの飛行機の主役であることは誰の目にも明らかでした。

主役の登場に、一段と大きな拍手が沸き起こりました。客室乗務員たちは主役を取り囲むように集まり、達成感に満ちた顔で何度もうなずきながら乗客たちの拍手に答えました。乗客たちも興奮を抑えきれず、ある者は立ち上がり歓声を上げ、ある者は髪を振り乱して涙を流しました。その光景はまるでミュージカルのフィナーレのようで、万雷の拍手はいつまでも鳴り止むことはなく、機内は興奮の坩堝と化していったのでした。


せっかく盛り上がっているのですから水を指す気はないのですが、ボクには一つ気がかりなことがありました。と言うのも、誰も気付いていないようなのですが、まだ飛行機は止まっていません。前方のスクリーンにはどんどん大きくなって迫ってくるビルが映し出されていて、飛行機は益々スピードを上げているように思えました。だけどこの飛行機をとめる人はいません。だって、いま帽子を取って観客の拍手に答えているのがその人でしょうから…。

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