湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


24.坂道

第一話:坂の上を左折、坂の下に出て

ホームで最終電車を待っている間、その日の朝刊を読んでいたら、坂道研究家という人の坂道に関する記事が載っていて、それがとても面白く、特に「坂の上を左折、坂の下に出て」というような言い回しが非常に気に入りました。

「ああ、坂道を上がり左を見たら、そこがまた違う坂の始まりだなんて、ロマンだな」と思いながら読みふけっていたら、その坂道の場所というのが、今いる駅のそばだということに遅ればせながら気づきました。

この駅のそばにロマンがある、そう思うといてもたってもいられず、最終電車をあきらめ、駅を飛び出し、夢中になってその坂道へと向かいました。

ところが、実際に坂道をのぼりながら「坂の上に出たら左折だな」と思ってみても全然ワクワクしません。想像していた時はあれほど魅力的に思えた坂道も、自分の足で踏みしめてみるとなんの変哲もない単なる舗装された道に過ぎませんでした。

ボクは深く後悔したのですが、とっくに最終電車は出てしまっているだろうし、これといってすることもないので、足元にあった小石を蹴飛ばしてみました。

小石はコロコロと坂道を転がったのですが、坂がなだらかなためあまり進まず、すぐに止まってしまい、それに小石も丸くなかったので思うような方向に転がらず、しょうがないのでボクは中腰になって指先で小石をつつきながら坂を下りていきました。

すると背後から「楽しそうね」という馴れ馴れしい声がしたので振り向いてみると、見知らぬ若い女性が立っていました。

第二話:黒い服の女

その女はリクルートスーツのような黒っぽい洋服を着ていて、年齢もそれ位に見えるので、就職活動中の学生なのかもしれません。

それにしても「楽しそうね」はあまりにも不躾で、仮にボクがものすごく楽しそうなことをしていたとしても、通りすがりの人に「楽しそうね」とは言われたくありません。まさに他人の心の中に土足で踏み込む、とはこのことです。

それにボクはどう見ても楽しそうではありません。実際楽しくなるような要素を何一つ持ち合わせていません。

ワクワクしながら登った坂道はまったくの期待はずれで、そのおかげで最終電車に乗り遅れ、今では都会の闇の中にひとりぼっちです。他にこれといってすることもないので、ひたすら小石をつついているだけですから、どこをどう曲解すれば楽しそうに見えるのか不思議でなりません。

ボクは彼女を無視して、小石をつつき続けました。しかし中腰で小石をつつきながら坂道を下るのもけっこう大変なもので、腰をたたきながらふと脇を見ると植え込みの中に手ごろな小枝が落ちていました。手に取るとこれがまた小石をつつくのにピッタリの長さで、ボクは迂闊にもちょっと「やったね」という顔をしてしまいました。

それをあの女が見逃すはずがありません。

黒い服の女は、またボクの心の中に入り込むように「今がいちばん楽しい時よ」と、冷静に言い放ちました。

もちろんボクは無視しました。

第三話:優雅なマダムのように

小枝で小石をつつきながら腰をかがめて坂道を下っていると、登っている時には目に入らなかったことに気づきました。

この坂道には両脇に植え込みがあり、腰のあたりくらいの高さの低木が植えられているのですが、その木の根元には小さな石から大きな石まで、石がたくさん敷き詰めてあったのです。ボクがつついている小石もそこからこぼれてきたものなのでしょう。そうでなかったら、この舗装された道路にこんな丸い石が落ちているはずがありません。

ボクは妙に納得してまた小石をつつき出したのですが、せっかくまわりにいろいろな大きさの石があるのだから、小石をもっと丸くて大きめの石に替えようと思い、今までつついていた小石を木の根元に戻し、ちょっと大きめの石に替え、それをつつきながら坂を下りました。

そのうち小枝も太いものを探し出し、次にまた石を替え、それを何度か繰り返しているうちに、小枝は杖のように太く、小石はボールのように丸く大きなものへと替わっていきました。その太い枝で大きな丸い石を押しながら坂を下りていると、まるで愛犬を散歩させているマダムのような優雅な気分になりました。

ボクは上品なマダムになりきって、ご機嫌で坂を下っていたのですが、ふと黒い服の女の存在を思い出しました。まだあの女がそばに居るとしたら、彼女はこのご機嫌そうな姿を見て、また「楽しそうね」と言うに違いありません。

しかしボクは決して楽しいわけではありません。これしかないからこうなっているのです。そう思いながら自己弁護していると、やはり背後からあの女の声がしました。しかしその声は弱々しく妙に沈んでいて、「それは…」と言うと声を詰まらせてしまいました。

ボクは「それは…」の次の言葉がすごく気になったのですが、女の声はそれっきり聞こえることはありませんでした。

第四話:坂道の終わり

彼女は絶句したままで、ボクは次の言葉が気になったので振り返ってみました。しかしそこには誰もいませんでした。たった今、声がした場所に女の姿はありませんでした。

この坂道はなだらかな長い直線で、両脇の植え込みの木は低く遠くまで見通しがきくので、今までここにいた彼女の姿が見えなくなるはずはありません。しかし彼女は忽然と姿を消したのです。

ボクは彼女が居たはずの場所をぼんやりと眺めながら、彼女が黒っぽい服装をしてボクの前に現れた理由を、そして彼女の最後の言葉の続きを考えていました。次第になにか得体の知れないものがボクの頭の中を支配するようになり、ボクはそれを抑えようと懸命になったのですが、どうしても抑えきれず、ついに大声を出してしまいました。

「あらあら、夜の就職活動かしら、若い人はいいわね」

窮地に追いやられて、ボクは身も心もマダムになってしまいました。ボクは枝で石の位置を修正してから、「ほんとにもう近頃の若い娘ときたら、逃げ足が速いったらありゃしない」とか言いながら、また歩き始めました。

しかしボクにはもう分かっていたのです。黒い服の女が現れた理由も、そして彼女が言おうとして絶句した言葉の続きも。しかしボクはそれを打つ消すように、「あらあら、ごきげんよう」と明るい声で植木に話しかけながら、オーバーアクションで坂道を下りていきました。大きくて丸い石を転がしながら…。

坂道の終わりはすぐそこまで来ていました。

最終話:もどれない道

坂道の下まで来てボクは振り返りました。下っている時はなだらかに思えた坂道も下から見上げるとけっこう勾配があり、最初にここに立ってこの坂道を見上げた時とずいぶん印象が変わっていることに気がつきました。

初めて来た時は、まだ見ぬ坂道に期待を膨らませていたのですが、実際に登ってみて単なる坂道だったことに気づき失望しました。しかし一度坂道を登り、そして下り終えた今、こうして見上げていると、もう一度この坂道を登りたいという衝動にかられました。もう一度登れば、今まで気づかなかった大切なものが見えるような気がしました。しかしもうかなわぬ夢なのです。

思えば、坂の頂上から少し下ったところでボクは小さな石を拾い、それからその小石をつつく小枝を探し、どんどん石と枝を大きめのものに交換しながら坂を下ってきました。今では巨大な石が足元に転がり、棒のような枝にもたれ掛かっています。ただひたすら大きいもの頼れるものを追い求め、この坂の下までたどり着いたのです。もうこの巨大な石を抱えてこの坂を登ることはできないでしょう。

ちょうど黒い服の女が声を掛けてきた時に、坂の頂上を見上げていればまた違う歩き方ができたのかもしれません。せめて二度目の彼女の言葉で気づくべきだったのでしょう。

しかしもう後戻りはできません。ボクはこれからもこの巨大な石を抱え、より安易な下り坂を選び、下るところがなくなるまで下り続けるのでしょう。

ボクは坂道の下で分かれていた幾つかの道から一本の下り坂を選び、枝で石を押しました。石は坂を転がり落ちていき、あわててボクもそのあとを追いました。

石を追いかけながら、もう一度あの坂道を見上げてみました。坂の上を黒い服の女が左に曲がったような気がしました。

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