湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


23.いとしのカレーうどん

第一話:夜更けの立ち食いそば

最近は夜遅くなることが多くて、ここ数日は連続して最終電車で帰っています。最終電車というのは意外に混んでいるもので、駅に着くとほっとします。

いつも利用している駅の前には夜遅くまでやっている立ち食いそば屋があって、最近新装開店したようなのですが、なかなか入る機会がなく、その日は外からのぞいて見てお客さんが誰もいなかったので入ることにしました。

店の外にある食券の自動販売機には、数種類のそばやうどんのボタンがあり、その中の「カレーそば・うどん」のところには手書きで「超おすすめこだわりの自家製カレー」と書いてあり、ひときわ目立っていました。

ボクはこれといって何を食べたいという願望はなかったので、とりあえずこの超おすすめカレーうどんを食べることにして、「カレーそば・うどん」のボタンを押し、食券を持って店に入りました。

店の中はカウンターだけで、お客さんは誰もいないのに中年の男性がせわしなく働いていました。おそらくこの人が新しい大将なのでしょう。大将はボクの顔を見ると威勢よく「へい、いらっしゃい」と声をかけ、カウンターの上に置いた食券を見ながら「うどん、そば、どっち」とこれまた威勢よく聞いてきました。ボクが「うどん」と答えると、大将は「あいよ」と短く答え、すぐに調理にとりかかりました。

どこにでもある立ち食いそば屋の風景です。

こういう店はスピードが命ですから、ボクもパパーッと食べて、ササーッと帰ろうと思っていました。誰だって立ち食いそば屋に入ったらそう思うに違いありません。

ですから、カレーうどんを食べるためにこれからとんでもない苦労をすることになろうとは、この時点では想像すらできなかったのです。

第二話:スピーディー大将

ボクは持っていた夕刊紙を広げてカレーうどんが出来上がるのを待ちました。新聞に目を落としながら気配で感じる大将の仕事ぶりはいかにも機敏で、ボクは新聞なんて読んでる暇はないだろうと思っていました。

予想通りにカレーうどんはすぐに出来上がり、大将は「へい、おまち」と相変わらず威勢よくボクの前にドンブリを置きました。

なんて気持ちのいい流れるような仕事ぶりなんだろうと感心しながら、ふとドンブリを見ると、それはカレーうどんではなくカレーそばでした。おそらく大将が勘違いしたのでしょう。

だからと言ってボクにはなんの不満もありません。うどんかそばのどちらかを選ばなければならなかったのでうどんを選んだだけで、そばでもいっこうに構わないわけです。それよりも大将のスピーディーな仕事ぶりが心地よく、ボクは大満足でそのカレーそばを食べようと、割り箸を手に取りました。

割り箸を割って、どれどれという感じでドンブリを手にした瞬間、大将が「あああ、間違っちゃったよ」と、思いもよらぬ甲高い声で叫び、自分の頭をポカポカ殴りながら走り回りだしたので、ボクは危うくドンブリをひっくり返しそうになり、やっとの思いでバランスをとり踏みとどまりました。

ドンブリを抱えて唖然としているボクから、大将はひったくるようにドンブリを取り上げると、なんのためらいもなくカレーそばをゴミ箱の中に捨て、さも悪いことをしたという顔で「わるいね、うどんだよね、もう少し待って」と言いながら、さっきよりもさらにスピードアップさせてカレーうどんを作り始めたのです。

しかし、猛烈なスピードで走り回りながら大将が手に取ったのは、またしてもそばの玉で、それをお湯の中に放り込むと、またあわただしく動き始めました。

相変わらずボクは、それを唖然として見ていました。

第三話:果てしない自己批判

しばらく唖然としたまま、スピーディー大将の目にも止まらぬ仕事ぶりを眺めていたのですが、ふと我に返り、これからどうしようかと不安になりました。

作り直してくれているのはいいのですが、明らかに今ゆでているのはそばだし、大将が魔術師でもない限り、出来上がってくるの間違いなくカレーそばです。

ボクとしてはうどんでもそばでもどちらでもいいのですが、間違いだと分かると大将が納得しないでしょうから、また作り直しになります。これ以上カレーそばを作られてもしょうがないので、作り直しだけは阻止したいのですが、ボクが「そばでもいいですよ」なんて妥協したようなことを言うと、大将のプライドを傷つけてしまいそうです。

なんとかカレーそばがボクの前に置かれるまでに手を打たなければならないと思い、いろいろと考えていたのですが、これといっていいアイデアが浮かばないまま、スピーディー大将はあっという間にカレーそばを作り上げ、ボクの前に「へい、おまち」とさっきと同じようにドンブリを置きました。

奇跡は起こらず、やはりそれはカレーそばで、ボクがそれを見ながらどうしたものかと悩んでいると、案の定「うお~」という大将の雄叫びがして、恐る恐る見てみると、思っていた通り大将は自分の頭をポカポカ殴りながら自己批判していて、どう見てもさっきより激しさを増していました。

大将はひとしきり反省するとボクのところまで来て、「申し訳ない、作り直すからね、もうちょっと待って」とさも申し訳なさそうな顔をして、「うどんだよね」と念を押してきました。

ボクが途方に暮れて絶句していると、いいタイミングでお客さんが入ってきて、大将はそのお客さんに「へい、いらっしゃい」と威勢よく声をかけると、あわてて水の入ったグラスを持ってそのお客さんのほうに走りました。

ボクは大将がそのお客さんに気をとられている間に作戦を練ることにしました。

第四話:完璧な注文、見事なリアクション

入ってきたのは80歳は過ぎていそうな小柄な女性で、ゆっくりとカウンターに近づくと食券を置き、大将を見上げながら「いつもほんとにありがとね」とやさしく微笑みかけました。

大将は「まいど、どうも」とちょっと照れたように威勢よく答えると、食券を見ながら「うどん、そば、どっち」とボクに聞いた時と同じように、そのおばあさんにも聞きました。

おばあさんは「寒くなってきたわね。あったかいおうどんをお願いするわ。おうどんって白くてつるつるでおいしいのよね。カレーも忘れずにかけてよ。ここのカレーがまたあったまるのよ」と答えました。

ボクは愕然としました。完璧な注文です。これではいくら大将でも間違いようがありません。

まずおばあさんは「寒くなってきたから暖かいうどんを食べたい」という動機をさりげなく告白し、次にうどんとそばを間違わないように「うどんは白くてつるつるなんだ」と念を押し、さらに「カレーも忘れるな」と警告しながらも「ここのカレーは暖まる」と過剰な誉め言葉を使うことなく大将の仕事を賞賛しているのです。

こんな注文を受けたら大将でなくても、おいしいカレーうどんを精一杯作りたくなるのが人情というものです。ボクだってカウンターを乗り越えて、このおばあさんのためにカレーうどんを作りたい気分になりました。

大将はおばあさんの完璧な注文に「あいよ」と短く答えると、生き生きとした仕事ぶりで、おいしそうなカレーうどんを作り上げ、「へい、おまち」とおばあさんの前に置きました。

おばあさんはそのドンブリを大事そうに両手で包み込み、まるで初めてのバースデープレゼントをもらった女の子のように目を輝かせながら大将を見上げ、「ほんとうにおいしそう」とこれまた見事なリアクションを披露したのでした。

その一部始終を観察しながらボクは「ふふふ、これだな」とつぶやきました。

最終話:もう言葉はいらない

大将はこぼれんばかりの笑顔で、おばあさんがカレーうどんを食べ始めるのを見届けると、ボクの方を向き直り、本当に申し訳なさそうな顔をして、顔の前で片手を立てる「ごめんね」のポーズをしました。

おそらく「おばあさんのカレーうどんを先に作ってしまってごめんね」とボクに謝っているのでしょう。声に出すとおばあさんが気にするので、ボクにだけ見えるようにちょっと小さめの「ごめんね」のポーズでしきりに謝っていました。

ボクもちょっと小さめの「とんでもない」のポーズで返しました。このポーズには「当然のことですよ。世界中のカレーうどんファンがおばあさんを優先するのを当たり前だと思っていますよ。大将が作らなかったら、ボクが作っていたところですよ」という気持ちを込めました。

その気持ちが通じたのか、大将も「うん、うん」としきりにうなずいていました。ついにボクたち二人は分かり合えたようです。これで大将はボクにもおいしいカレーうどんを作ってくれるに違いありません。

大将はお湯の入った鍋を指さし「大急ぎで作るよ」のポーズでボクを見ました。ボクは割り箸を持った手を少し上げて「飛び切りおいしいヤツをおねがいね」のポーズで答えました。もうボクたち二人に言葉はいりません。もしかしたらおばあさん以上に完璧な注文と言えるかもしれません。

と思っていたら、カレーうどんを作り始めた大将が勢いよくお湯の中に放り込んだのは、またしてもそばの玉で、大将はまったくそれに気づかず、ステップを踏むように軽やかに次の作業にとりかかりました。

ボクは少し悩んだ末、割り箸を持った手を高々と上げ前傾姿勢をとりました。これは「飛び切りおいしいヤツをおねがいね」のポーズをパワーアップさせた「もう何が来ても食べちゃうぞ」のポーズです。

今度はボクが飛び切りのリアクションを披露する番です。

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